「Sex Allocation」 第11章 一般的な問題 その3

Sex Allocation (Monographs in Population Biology)

Sex Allocation (Monographs in Population Biology)


社会進化リサーチにおける性比理論の有用性について,淘汰のレベル論争の後でグループ淘汰についても一節をあてている.本書の出版はあの悪名高いNowakたちの論文より前だが,ウエストはグループ淘汰については総説論文を書いているし,一家言あるところなので読みどころということになるだろう.


11.3.1.2 淘汰のレベルとグループの幻想


この淘汰のレベルとグループ淘汰をめぐる議論も包括適応度理論家が常々「何故こんなばからしい論争にいつまでも悩まされなければならないのか」と感じている部分だろう.ウエストは自らの総説(West et al. 2007, 2008)を引用しつつ,さらに1節をもってこの問題も整理している.

  • グループ淘汰文学(The group selection literature)は途方もない量の混乱をもたらしてきた.そしてそれは今日も継続している.ここでは混乱の元となるすべての点は性比リサーチ分野において遙か昔に解決済みであることを示そう.
  • 主要な問題は「血縁淘汰(あるいは包括適応度)が重要でないような場合の協力がグループ淘汰によって説明できる」と主張する理論的論文が現在でもしばしば発表されることだ.(その手の論文としてWilson 1975; Bergstrom 2002; Wilson and Holldobler 2005; Nowak 2006; Traulsen and Nowak 2006; Wilson and Wilson 2007が挙げられている.現在改訂するなら当然Nowak et al. 2010も加わるだろう)
  • しかしながら第4章で詳しく説明したように,この問題はLMCをめぐる論争において1980年代に解決済みなのだ.包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論は数理的に等価であって,同じ問題を視点を変えて見ているに過ぎないのだ.(Grafen 1984; Harvey et al. 1985; Frank 1986)グループ淘汰は「グループ間の遺伝的分散をグループ内の遺伝的分散よりも増加させる場合に協力は進化する」ことを示しているが,それは包括適応度理論で「(グループ内の)血縁度を上げる場合」ということと等価なのだ.さらにLMCにおける理論は「グループ」それ自体に意味がないことを示している.メスバイアスは個体の分散具合が限られているだけで生じる,そこには何らかの区分されたサブグループがある必要もない.


ここはエッジのピンカーの寄稿に始まる論争でも,ピンカーが最初に指摘していたことだ.曰く

コメンテイターたちのうちグループ淘汰理論擁護者によると「何故ヒトに道徳,共感,文化,言語,社会規範,さらには乳糖耐性や高地への生理的順応などの地域独自の適応があるかについては,グループ間競争が唯一の説明だ」ということになる.しかしグループ淘汰理論は遺伝子視点の進化理論,あるいは包括適応度理論と数理的に等価であり,両者は同一の予測を行い,実証的には区別できないはずだ.
これこそが私のエッセーの趣旨「グループ淘汰という概念は進化理論をヒトに適用しようとして混乱をもたらしている」を確証してくれている.

DSウィルソンのみはこの誤りを注意深く避けているが,ギンタスやリチャーソンやハイトたちは全くこの問題に気づいてもいない.まともな理論家としてはここは本当にいくら強調してもし足りない部分だろう.

  • もうひとつの混乱の元は,「マルチレベル淘汰と血縁淘汰は等価でありどちらも正しい」ことは,「どちらも同じように有用である」ことを意味しないということだ.
  • 理論的な視点から見ると,血縁淘汰は(1)より簡潔なモデル化が可能で(2)より一般的なモデル化が可能で(3)生物的に有用なはるかに多様な状況のモデル化が可能だ,また実証的な視点から見ると,血縁淘汰は現実の生物学的状況でより実証が容易だ.
  • これらの点は性比リサーチエリアで明瞭に描き出されており,特に社会進化領域の3つのメインのエリア(LMC,社会性膜翅目昆虫の性比をめぐるコンフリクト,性比歪曲者)で顕著だ.
  • LMCでは「血縁淘汰vsグループ淘汰論争」は最も単純なケース(ハミルトンの1967のオリジナルモデル)をめぐって生じた.しかしより複雑な生活史が必要な特殊なモデルが必要になると,これらを説明するグループ淘汰モデルを構築するのは非常に難しくほとんど不可能なことが明らかになった.一方,ハミルトンの理論を拡張し,多様な生物学的状況に応じてより特殊で検証可能なモデルを構築する仕事はすべて血縁淘汰のフレームワークによってなされているのだ.
  • 膜翅目昆虫の性比コンフリクトに関するすべての理論的,実証的な仕事は,包括適応度理論と血縁淘汰によって基礎づけられている.これに相当するグループ淘汰モデルは非常に複雑になると思われ,それまだ構築されていない.
  • 最後に性比歪曲者に関するリサーチも完全に包括適応度と血縁淘汰アプローチによってなされている.


LMCの部分の指摘は面白い.これに関してはエリオット・ソーバーがLMC理論はグループ淘汰から生まれたかのような我田引水的な説明をしているのを読んだことがあるが,ウエストはおそらくこれにも我慢ならないという思いなのだろう.

  • なぜ淘汰のレベル論争が性比リサーチエリアでは(他のエリアにおけるぐだぐだな混乱と比べて)非常に容易に決着するのかを問うのは意味のあることだ.
  • 1つの可能性のある理由は,性投資比は個体がどう振る舞うべきかについてあまり凝り固まった先入観がないからというものだ.これは協力や利他行動のリサーチと比べて大きな違いだ.そして特に対象生物がヒトである場合にはこれが顕著だ.人々は「ヒトはより大きな善のために行動する」と主張することを望むのだ.
  • もうひとつの可能性のある理由は,性比理論は現実の生物における検証可能なモデルを構築することにフォーカスしているからだというものだ.協力や利他行動などの社会進化のトピックにおけるほとんどの混乱は,実際の生物に適用するのが困難な抽象的なモデルをめぐって生じているのだ.


1点目の「ヒトの善たる本性を説明したいがために自己欺瞞に陥る」という理由はよく指摘されるところだ.この動機はハイトやDSウィルソンには顕著に見られるように思う.2点目はいかにも行動生態の理論家らしい指摘だ.傾聴すべきところだろう.