「奴隷のしつけ方 」

奴隷のしつけ方

奴隷のしつけ方


本書はケンブリッジの古典学の専門家ジェリー・トナーによるもので,古代ローマ時代の奴隷について架空のローマ人が書いた書物という体裁で著述されている.だから本書の著者名はあくまでマルクス・シドニウス・ファルクスと表記されているのだ.邦題は「しつけ方」となっているが,原題は「How to Manage Your Slaves」であり,単にしつけの問題ではなくどのようにマネージするか全般が書かれている.

購入ノウハウ,活用法(どのような仕事にどう就かせるか,どう食事を与えるかなど),罰し方が前半の主要部分になる.購入については当時の様々な状況の説明が面白い.逃亡癖があったり,実は自由人である場合(自由人を海賊がさらってきたような場合*1)などの重大な瑕疵*2があれば,取引法上瑕疵担保の問題になるが,微妙な品質問題は(一旦購入するとその後の法的救済がなく,その場の判断が非常に重要になるという意味で)なかなか難しいのだ.ここでは共和制から帝政に移った際の経済的な変遷にもふれていて,いかにもケンブリッジの学者らしく渋い.
奴隷の使われ方は大きく分けて都市での家内奴隷と郊外での農場奴隷に分けられ,マネジメント方法も大きく異なっていた.活用法で面白いのは,一般の農場奴隷の扱いは,通常の家畜の扱いに追加してインセンティブをうまく与えるという形になるのに対して,農場の管理人を奴隷に任せる場合には非常に注意が必要だということだ.エージェントプロブレムは古代から重要だということがよくわかる.罰し方については公正さが重要であって感情にまかせないことが重要だと指摘している.さもありなんということだろう.


この合間に奴隷と性,奴隷は劣った存在かという章がある.前者は読者の興味のあるところへの配慮ということだろう,淡々と説明されている.後者はちょっと面白く,古代ローマ人が奴隷をどう考えていたかということがかなり紙面をさいて説明されている.基本は同じ人間であって劣っているわけではなく,中には高貴な行いをするものもあることを認め,とはいっても様々な事情で奴隷になっていることを肯定的に受け止めている様子が描かれている.古代においては奴隷の存在は当然のことであり,倫理道徳的には何ら問題なし*3とされる存在だったが,だからといって自分より劣ったものとして虐待していたわけでないということが強調されている.


後半は個別問題が扱われる.まず拷問.古代では奴隷の証言は拷問を経たものでないと信用できないとされていたそうだ.奴隷の証言はインセンティブが市民と異なるので信用できないというのはわかる.しかし何故拷問すると信用できると考えるのだろう?拷問を逃れるためなら何でも言うのではないだろうか.本書はなかなか面白い読み物だがこの部分だけは納得感がなかった.片方で「主人が奴隷に殺された場合には家内奴隷全員が死罪」というのは抑止力を高めるほか,周りの奴隷たちの通報や救助の努力を促すことを念頭に置いたシステムということになるだろう.
奴隷反乱はまれであるが,過去には大きなものもあったということでスパルタカスの反乱を含むいくつかのケースが述べられている.これも読者の興味を引きやすいところだろう.
解放を扱った部分は興味深い.特に家内奴隷の場合には奴隷の最大のインセンティブは解放される望みであったようだ.正確にはわからないが5〜6年で解放されていく場合もあったようだ.このあたりのインセンティブの保たせ方が奴隷労働のマネジメントの要諦ということになるのだろう.


というわけで本書はなかなか興味深い本になっている.奴隷の存在自体についてごく当然のこととして受け止める社会で,言語と意志と希望を持つ「家畜」の生産性をあげるためにはどうすればいいかということが実践の上で論じられていて迫力があるし,女性奴隷の繁殖問題をのぞけば,基本的にどのように奴隷のインセンティブをマネジメントするかが究極的に重要であり,公正で冷静な態度が必要とされることがよくわかる.さらにマネジメント自体を奴隷に任せるにはエージェントプロブレムに対して細心の注意が必要なのだ.やはり英国のオックスブリッジの学者の懐は広い.同じ著者のほかのローマ本も読みたくなる気分だ. また単に歴史書であるだけでなく,ヒトの行動心理をめぐっても,もはや現代では許されない奴隷制という極端な環境下で何が生じるかを知るのになかなか有用な本に仕上がっていると思う.



関連書籍


原書

How to Manage Your Slaves by Marcus Sidonius Falx (The Marcus Sidonius Falx Trilogy)

How to Manage Your Slaves by Marcus Sidonius Falx (The Marcus Sidonius Falx Trilogy)


古代ローマは歴史好きな欧米知識人の間では非常にポピュラーなジャンルで書籍も膨大にある.また古代ローマ法は,ユスティニアヌス法典,ヨーロッパへの継受,ナポレオンによる法典編纂を経て大陸法,そして日本の私法の基礎になっているのでローマ法関連の書籍も結構出版されている.私が読んだ中で奴隷の法的な問題を扱ったものとしてはこの本がある.当時のローマ法においてはローマ市民,市民でない自由人,奴隷ではそれぞれ権利能力が異なっていた.しかしこの身分は自由人が奴隷になったり,奴隷が解放されたりして動くので,その際(特に権利能力が減少する際)に何が生じるかが重要な法的問題になる.これを扱う法理論の精密さはなかなか感動的だ.

現代ローマ法体系〈第2巻〉

現代ローマ法体系〈第2巻〉



 

*1:ローマ法は非常に洗練された法体系であって,ある人が奴隷かどうかという法的評価の問題が(事実の問題とは別に)明確に定められている.基本的には戦争奴隷,債務奴隷,奴隷の母から生まれた子が奴隷になる.だから自由人が海賊にさらわれた場合,その人はあくまで自由人であり,奴隷市場を通してもその身分が変更されることはない

*2:逃亡癖は実務的にしばしば生じる重要な瑕疵だったようで明確に瑕疵担保要件と認められていた

*3:戦争奴隷,債務奴隷は基本的に自己責任ということになる.母の身分を引き継ぐのは身分制度がある中では当然という受け止め方になる.