「生物学の哲学入門」

生物学の哲学入門

生物学の哲学入門


本書は森元良太,田中泉吏という2名の若手哲学者による「生物学の哲学」の入門書だ.進化理論とそのダーウィン以降の学説史を簡単に解説し,いくつかの哲学的なトピックを選んで,これまでに議論されてきたことをまとめている.
 

第1章 進化理論と進化学説史

ダーウィンのOrigin(種の起源)のテーマが何かというのは,いろいろな読み方があって,ソーバーがそれで一冊書いている.ここではダーウィンの論証の鍵は生命の樹仮説と自然淘汰説の2つだと平行的にまとめている.それぞれの解説は簡潔で要を得ている.ただし自然淘汰の条件として,変異の存在,変異が適応度にかかるものであること,変異が遺伝することの3つのみをあげていて,競争の存在をあげていないのは少し引っかかる*1
ここでダーウィンの論法が「最善の説明への推論(アブダクション)」であることがきちんと解説しているのはいかにも哲学書らしいところだ.
またダーウィンの死後から現代的総合までの間の学説史が詳しいのも本書の特徴だ.定向進化説の興隆と衰退,ヴァイスマンの生殖質説*2,メンデルの再発見と跳躍的突然変異を重視したメンデル学派,連続的形質を重視してそれに対抗した生物測定学派,両者を統一した集団遺伝学(さらにフィッシャー,ライト,ホールデンのそれぞれの考え方),さらにこの考え方を基礎に生物学の様々な分野の統合が進んだこと(進化の現代的総合,さらにドブジャンスキー,マイア,シンプソンの業績)がコンパクトにまとめられている.

第2章 進化理論の特徴

ここは哲学者からみたダーウィニズムの特徴が解説されている.
著者たちによるとまず集団的思考があるという.これは生物個体の特徴を考えるのではなく,生物集団全体の統計的な特徴を考察対象とするという意味だ.そしてそれは測定誤差論として始まった統計学の新しい適用として開花する.ここはなかなか読ませる部分だ.
著者たちが挙げる次の特徴は非決定論的世界だということだ.これは集団遺伝学が確率的な過程を扱うことを指している.決定論かどうかというのは哲学者には随分気になることのようで*3,進化理論は決定論的古典物理学に還元できるか,量子力学の非決定性は進化現象にも「しみ出し」ているかなどの議論が延々と解説されている.なおここで(量子力学的なしみ出しを無視した場合でも)遺伝的浮動は非決定論的世界だと扱われているが,浮動であっても古典物理学的に還元できて,それは決定論だと扱えるのではないかという疑問が頭から離れなかった.

第3章 利他性の進化

生物にみられる利他性の例として社会性昆虫が取り上げられているが,特にミツツボアリの蜜壷役のワーカーが代表として扱われているのはちょっと目新しい.通常の生物的な生活を放棄しているようなところが一般読者には印象的だろうということで用いられているのだろう.
前提の整理として個体適応度から定義される「生物学的利他性」と行為者の動機・目的から定義される「心理学的利他性」と区別しているのが哲学者らしい.その後なぜ生物学的利他性が進化生物学的に問題になるのかが説明されている.


ここからまず血縁淘汰理論が解説される.個体から遺伝子に視点転換したことがポイントだと指摘した後で,血縁度,ハミルトン則,包括適応度(更にコラムとしてドーキンスの利己的遺伝子)を順に解説しているが,平板でやや浅い.考え方の基礎にあるのが遺伝子視点であり,それをそのまま表現したものがドーキンスの説明の仕方,更に生物の行動のエージェントとしての個体視点から見て理論化したものが包括適応度とハミルトン則であると説明すべきであっただろう.
そして冒頭のミツツボアリのワーカーの利他性を半倍数体の姉妹間の血縁度で説明できるとしているが,ここは問題が多い.確かに1回交尾であれば繁殖メスとワーカーという姉妹間では高血縁度になるが,繁殖オスとワーカー間では低血縁度になり,同じような世話を行うのであれば相殺される.またワーカーによる性比調節があれば,それによっても姉妹間の高血縁度の影響は相殺される.進化のきっかけになり得るという議論は可能だが,クイーンの交尾回数とも絡んで非常に微妙な部分だ.この程度の紙数で解説することが前提になるなら,学説史的な配慮を別にすると別の例を使う方がよかっただろう.*4


次にいわゆる「新しいグループ淘汰理論」あるいは「マルチレベルグループ淘汰理論」が「形質群選択説」*5という聞き慣れない名前で紹介されている.
学説史としてはダーウィンの曖昧な考察,ウィン=エドワースの繁殖抑制のナイーブグループ淘汰議論,ウィリアムズをはじめとするナイーブグループ淘汰に対する批判,それを踏まえたマルチレベルグループ淘汰理論の提唱という流れを押さえている.
ここから本書は引き続き学説史的に,淘汰のレベル論争,メイナード=スミス,ウィルソンとソーバー,ステレルニーの議論を延々と紹介し,最後に血縁淘汰のモデルとマルチレベルグループ淘汰のモデルが同等の予測をすることにちょっとふれるという構成をとっている.
過去の論争も哲学的には意味があるという趣旨だろうが,違和感は残る.まずモデルとしては数理的に等価であることを明確にし,その上でそれぞれの議論にどういう意味があるかを解説した方がよかったのではないだろうか.そうすれば最後に意味のある議論は,ステレルニーの「どちらのモデルも数理的に等価であり,どちらを使っても構わない」という立場とソーバーの「淘汰レベルにおける因果は実在し,マルチレベル淘汰理論のみが真の因果を説明できる」という(私には筋悪としか思えない)立場の違いのみが残るということが明らかになるのではないだろうか.
なおここでソーバーたちは自分たちは複数の淘汰レベルを認める「多元論」であると主張し,ステレルニーたちは自分たちこそが血縁淘汰もマルチレベル淘汰も認める「多元論」であると主張して,互いに正当性を競っているという指摘があって,なかなか面白い.なお著者たちは,この二つの多元論を「プロセス多元論」と「モデル多元論」と呼び,最後にこの対立点は経験的なものではなく哲学的なものであるとまとめている.

第4章 断続平衡

ここの学説史的な解説は深くて面白い.著者たちの見解によれば,断続平衡仮説は元々マイアの異所的種分化理論を古生物学に応用した理論として捉えられていた.しかし形態的な変化と生殖隔離が必ずしも一致しないと批判され,それは進化プロセスの主張から進化パターンへの主張に後退し,しかし化石記録の生物学的意義を追求する理論として頑張り,更に後には種淘汰説と結びつけるようになったということだそうだ.理論的にぐずぐずながらいったん言い出したことにしがみつくグールドの仕振りがあぶり出されていて趣深い.
この章はこのほか断続平衡仮説はトートロジーといえるか,観察の理論負荷性の問題(種分化理論の前から化石記録に断続平衡パターンが認識されていたことについて),クーンのパラダイム論,大進化が小進化に還元できるかなどいろいろなトピックが扱われていて楽しい章になっている.グールドのヌエのような主張は哲学的にはいろいろ料理のしがいがあるということなのだろう.なお最後に断続平衡仮説の意義は何だったのかについて,実在する大進化のパターンを示したことには引き続き意義があるとまとめている.そういうことだろう.

第5章 発生

まず学説史.ゲーテの比較解剖学,キュビエとサン=ティレールのボディプランにかかる論争,ヘッケルの反復説,実験発生学と調節説とモザイク説などの解説は楽しい.
この後,本書では,発生は長らく進化学に無視されてきた(総合説は発生を単にブラックボックスとして扱った)末にようやく90年代からエヴォデヴォとして統合されるようになったが,それはなぜかと問いかけ,発生は至近要因として重要視されなかったとか類型学的思考が集団的思考とあわないなどの考察がなされている.ここはやや違和感がある.それは単に発生の遺伝的な仕組みが総合説に統合するにはよくわかっていなかったというだけではないだろうか.
学説史は更に続き,ホメオティック突然変異,ホメオボックス,Hox遺伝子が次々に発見され,ついにエヴォデヴォ(進化発生学)が勃興する.本書では最後に発生システム論が総合説に修正を迫るかという話題を扱っている.ここでは発生の研究は従来の研究を補完するものだという妥当な見解でまとめられている.

第6章 種

生物分類の解説から始まるが,哲学者らしく「種タクソン」(個別の種)と「種カテゴリー」(すべての種を指す総称)の区別から始めている.
ここも学説史的に整理されていて楽しい.まず哲学では伝統的に種タクソンは自然種の典型例として考えられてきた.これは本質主義と深く関連する.
体系学ではこれを否定し,種タクソンは歴史的な存在であり「個物」であるとした.生物学の哲学者たちはこの個物説をおおむね受け入れてきていたが,近年新しい本質主義の主張がなされるようになった.その一つが恒常的性質クラスター説(一群の性質のうち一定以上あれば種のメンバーとする)になる.
著者たちはこの説明は種タクソンにはある程度当てはまると認め,しかし種カテゴリーにはどうかと検討し始める.種カテゴリーについての恒常的性質クラスター説(これは種の実在論の一つになる),種の多元論(複数の種概念を使い分けようという立場),伝統的本質主義と種カテゴリー恒常的性質クラスター説の違い(伝統的本質主義は生物学的知見に合わない)などが解説されている.
最後に著者たちは話を微生物に広げて検討を行い,恒常的性質クラスター説は所詮巨生物(本書では非微生物をこう呼ぶ)中心主義であると断罪し,種カテゴリー反実在,種概念の排除などの議論を好意的に紹介している.要するに最近提唱された恒常的性質クラスター説でもすべての問題はカバーしきれないということだろう.私の素朴な感想としては,なぜ恒常的性質クラスターとか持ち出して頑張るのだろうか,「個物説」で何か不都合があるのだろうかというところを抜け出せないが,なかなか論争はヒートしているようだ.

本書は生物学哲学の入門書として書かれているが,多くのページを対象である生物学の学説史に割いており,コンパクトな学説史解説としても有用性が高い.そして背景の学説史や論争を理解した上で哲学的な諸問題を解説しているが,(おそらく個々の哲学者として主張したいことはいっぱいあるだろうが)できるだけ中庸の姿勢を崩さずに淡々と書かれていて好感が持てる.(利他性のところに少し批判的な感想も書いたが,それは私がこのトピックについて深入りしすぎているということもあるのだろう.)
生物学の哲学に興味のある人が最初に読む本としては,ほかに類書がなく,お勧めできるできる一冊だ.



関連書籍


ソーバーによるOriginの読み方についての本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20140322


本書を読んだあとに次に進むべき本として日本語で読める本を挙げると以下のようになる.


ステレルニーがグリフィスと共著した生物学の哲学に関する教科書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100204


ソーバーのもの 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090622


日本の哲学者たちによるアンソロジー.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110724

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)

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  • 発売日: 2011/06/22
  • メディア: 単行本


若手科学哲学者によるアンソロジー.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100920


ソーバーによる生物の系統推定にかかる最節約法についての哲学的な論考 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100704


同じくソーバーによる統計の科学哲学の本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130811

科学と証拠―統計の哲学 入門―

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ヒトの進化学についてはについてはこの本が充実している.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20150520

人間進化の科学哲学―行動・心・文化―

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  • 作者:中尾 央
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本


これは生物学の哲学より広い科学哲学についての対談をまとめたもの.物理学者の突っ込みに哲学者が応える.かなり面白い.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130623

*1:更にもう一点,ダーウィンの遺伝についての考え方の解説についてもやや不満がある.本書では,ダーウィンはジェンキンらの混合の批判に対して,単にパンジェネシス説を出して理論的に粒子的であるとしたが,それが実験によって否定されたという書きぶりになっている.しかしダーウィンは先祖帰りをはじめとする豊富な実例から遺伝には粒子的な側面があることを確信しており,本来それだけでジェンキンに反論可能だ.ダーウィンはいくつかの観察事実を誤って解釈して獲得形質が遺伝することがあると信じてしまい,それを粒子的遺伝と合わせるために苦労してパンジェネシス説を提唱しているとみるべきだろう.

*2:有名な何代も続けてネズミの尻尾を切る実験について,生殖細胞系列と体細胞系列の区別を示すためのものと紹介しているが,むしろ獲得性質が遺伝しないことを示すための実験とされることが多いだろう.

*3:生物学の哲学の本にはしばしばこの還元の議論が出てくる.私は何度読んでもなぜこんなに白熱した議論が生じるのかよく理解できない.そもそも(量子論まで含めば)生物学は物理学に原理的に還元できるに決まっているし(しかしそれはヒトの認知能力では理解できないほど複雑になるだろう),仮に還元できないとして,それで何がどうなるというのだろうか.彼等は一体何のために議論しているのだろう.

*4:更にいえば,本書では血縁淘汰とマルチレベル淘汰を平行に扱っているのだから,このような実例の理論的な解説は,マルチレベル淘汰ではこのミツツボアリの例をどう説明するかもあわせて章の最後に持ってくるべきだっただろう

*5:なぜこのような名称を用いているのかはよくわからない.哲学業界ではこちらがよく使われているのだろうか