「エピジェネティクスの生態学」


本書は種生物学会によるシリーズの一冊.今回のテーマはエピジェネティクスになる.

エピジェネティクスはDNA塩基配列以外(特にDNA及びヒストンへの化学修飾)による遺伝的な現象を指すものとして使われることが多い用語だ.しかし一般向けの書籍などでは,このエピジェネティクスを「確固であると思われていたダーウィン学説を根底から覆す革新的メカニズムだ」とか,「獲得形質の遺伝であり.ラマルク説の復活だ」とかに位置づける,いかにも思い込みの激しい言説にあふれていて,真面目に読むにはちょっと引いてしまうことが多い.
特に「獲得形質が遺伝できる可能性」の問題は,ダーウィン学説を遺伝決定主義と誤解して忌み嫌う人々から,「人々を遺伝の軛から解放する福音」として受け止められ,怪しい取り上げられ方をされやすい.ピンカーも「誰か別の人に書いて欲しい本は?」とインタビューで問われて,「感傷主義科学:平和な部族,利他的な類人猿,エピジェネティクス,グループ淘汰,ミラーニューロンとその他の怪しい道徳向上のための科学歪曲」と答えたりしている.
そもそもダーウィン自身は遺伝をDNA塩基配列によるものに限っておらず(当時遺伝のメカニズムは知られていなかったのだから当然だが),化学修飾が世代を越えて遺伝し,それに自然淘汰が働くとして,それはまさにダーウィン学説に沿った現象であるわけだし,ラマルク説のポイントは用不用によって適応的な形質が獲得され,それが次世代に伝わるところで,エピジェネティクスがあるだけではそれが復活することにはならないだろう.環境に対して適応的に化学修飾が生じる傾向が一般的にあるとは思えないし(適応度と相関しない形式で修飾が生じて,その中から適応的なものが残るならそれはダーウィン的だ),上記感傷主義科学が望むようにヒトの認知的学習について適応的な化学修飾が生じるとはさらに考えにくいだろう.
とはいえ,確かにDNA塩基配列以外の世代を越える遺伝的な形質があるなら,それが進化動態にどう影響するかは興味深い問題になるだろう.またもし環境に対して適応的に化学修飾が起こるようなメカニズムがあるなら,(そういうメカニズム自体がダーウィン的に生じたとしても)それが世代を越えて伝わることは広い意味でラマルク的と表現できないわけではない.いずれにせよ一度きちんと事実を踏まえた真面目なエピジェネティクスの本を読んでみたいと思っていたので,本書はまさに私にとって渡りに船といった書物になった.

第1部 エピジェネティクスへの招待

第1章 クロマチン修飾が制御するエコロジカル・エピジェネティクス 玉田洋介

エピジェネティクスの基礎解説と生態的なエピジェネティクスへの招待という導入章になる.冒頭のエピジェネティクスとエピジェネシスの関係の説明は大変参考になる.私は発生にかかる後成説(エピジェネシス)とDNA塩基以外の遺伝(エピジェネティクス)が似たような用語になっているのを面倒なことだと思っていたが,本書では実はこの両者には深い関係があることが解説されている.後成説の立場では,なぜもともと同じ細胞から様々な器官が形成されるのかが説明できなければならない.これには異なる器官になるための分化した遺伝発現状態が細胞分裂を越えて維持される仕組みが必要になる.そしてこれを細胞記憶と呼び,この制御メカニズムをエピジェネティク制御と呼んだということから生じているのだ.だから必ずしも世代を越えなくても細胞分裂を越える現象があればそれはエピジェネティクスと呼ばれるということになる.
ここからは化学修飾の具体的な解説になる.DNAとそれとともに染色されるタンパク質をまとめてクロマチン(染色質)と呼ぶ.このようなクロマチンへの化学修飾の一部がエピジェネティク制御にかかわる.制御にかかわる修飾には大きく分けてヒストンタンパクへの修飾とゲノムDNA塩基のうちシストンへの修飾がある.化学修飾の代表的なものはメチル化だが,それ以外にもヒストンへの修飾にはアセチル化,モノユビキチン化,リン酸化などがある.それぞれ詳細に解説されているが,なかなか複雑だ.私が興味深いと思ったところをいくつか紹介しよう.

  • クロマチン修飾の機能や制御メカニズムはまだ「驚くほど」理解が進んでいない.修飾の場所や転写活性との相関は調べられているが,知見は「相関」止まりであることが多い.エピジェネティクス研究はまだコンセプトや仮説が先行して結果が追いついていない状況である.
  • ヒストンの修飾機能はHox遺伝子の転写活性から調べられた.転写抑制グループと活性化グループがあり,拮抗的に作用している.
  • シトシン修飾の機能,制御様式,世代を越えやすいかどうかは生物のグループによって大きく異なる.よく調べられているのは陸上植物と哺乳類になる.哺乳類では胚発生と生殖細胞形成時にメチル化の初期化が生じるが,被子植物では世代を越えて維持されやすい.
  • 哺乳類でも維持されるものもある.ゲノミックインプリンティングは世代を越えて維持されるメチル化により生じている.
  • エコロジカル・エピジェネティクスとしてはエピジェネティクスの表現可塑性に与える役割が注目されている.また適応進化の速度を上げる効果がある可能性,(系統間不和合による)種分化への影響も注目されている.
第2章 アサガオの模様を生みだすエピジェネティクス 星野敦

まず読者に興味を持ってもらうための楽しい身近なエピジェネティクス導入章.題材には世代内エピジェネティクスであるアサガオの花の模様が取り上げられている.これはマクリントックがトウモロコシの種子の色で解析したトランスポゾンによる個体内色彩変異と同じ現象だ.
ここで明らかにされるのはトランスポゾンとエピジェネティクスが深く関連していることだ.トランスポゾンの転移活性の多くはDNAのメチル化により制御されている.本章ではそれがどのようにアサガオの花の模様をつくるのか,戦前の日本遺伝学の黎明期の学者今井喜孝の考察をひもときつつ*1,それぞれの模様について,どのようなメチル化が,どのようにトランスポゾンの転写活性に影響を与えてできるのかが解説されている.ここは謎解きの経緯に従って書かれていて呼んでいて楽しいところだ.
そうして浮かび上がってくるのは,このメチル化による制御メカニズムは,寄生的な遺伝要素であるトランスポゾンを押さえ込むためのホスト側の適応進化産物であり*2,さらにトランスポゾンもそれに対して対抗進化をしているという進化動態だ.なかなか興味深いところだ.

第3章 エピ変異:その安定性と表現型へのインパクト 西村泰介

DNA塩基配列では違いがなくてもDNAのメチル化の違い(エピ変異)によって表現型が異なってくるという現象を扱う.著者はエピ変異体を継代飼育し,その遺伝性の持続程度,メチル化の消失や再メチル化と低分子干渉RNAとの関係を調べる.持続程度は表現型により異なり,詳細はいろいろと複雑だ.著者は,植物のDNAメチル化の役割はトランスポゾンなどの利己的遺伝要素の発現抑制が基本だが,一部の量的表現型は持続的に世代間で伝わることから,それが進化速度に影響を与える可能性があることを指摘している.

第2部環境適応とエピジェネティクス

第2部では世代内のエピジェネティクスに焦点が当てられる.ここでは進化適応への影響というより環境に対する条件付き表現型発現メカニズムという側面に主に光が当たることになる.

第4章 環境ストレスと進化:ストレス活性型トランスポゾンと宿主の関係 伊藤秀臣

第2章で示唆されていたDNAメチル化による利己的遺伝要素発現の制御についてより深く切り込む.
まず具体的メカニズムの説明.RNA干渉によるDNAメチル化やヒストン修飾の誘導(RdDM:もともとは外来の遺伝子のDNAのメチル化機構であったと考えられている),DNAメチル化によるトランスポゾンの転移抑制,挿入の抑制,ヒストン修飾によるトランスポゾンの制御が解説される.
次に植物では発生のある時期にそのトランスポゾンの抑制が一時的に解除される現象が解説される.具体的には胚乳や花粉管核で脱メチル化によりトランスポゾンの転写活性が生じ,これにより蓄積された小分子RNAが卵細胞や精細胞に運ばれてRdDMを補強する.これにより世代を越えたトランスポゾンの伝搬を防ぎながら,生殖細胞での制御を強化していることになる.また雑種形成や環境ストレスにより修飾が変化することも説明されている.
さらにこの転写制御はホスト自らの遺伝子制御にも使われていることが明らかになってきている.トランスポゾンが挿入されると,その近隣遺伝子の発現に影響があるのだ.
著者は最後に環境ストレスによってトランスポゾンが活性化され,ホスト遺伝子発現に世代を超えた影響を与えて,ホストの進化へ影響を与える可能性があることを指摘している.

第5章 冬の記憶:FLCのエピジェネティク制御から明らかとなる植物の繁殖戦略 佐竹暁子

冬を越して春に開花する植物の開花制御について解説がある.その中心メカニズムは花成抑制転写因子FLCの制御であり.ヒストン修飾が冬の記憶を与えることによってなされている.
ここでは1回繁殖植物と多回繁殖植物の差は,冬の記憶の持続時間が異なることで説明できるとし,その化学修飾の状態の双安定性を説明するネットワーク制御の数理モデルが紹介されている.
基本的には,世代内のエピジェネティク制御が,条件付き応答戦略のメカニズムとして使われている現象ということになる.なかなかエレガントなモデルだ.

第6章 野生クローン植物集団に見られるエピジェネティク空間構造 荒木希和子

ここでは根っこでつながりクローンである植物体が増えていくような植物(クローン集合をジェネット,その中の根茎葉を持つ伝統的には個体に似た部分をラメットと呼ぶ)が題材になる.エピジェネティクスが発現すると同じクローン体でもラメット間に差異が生じうることになる.
著者がかつてスズランを調べた時には,単一ジェネット地区と複数ジェネットが入り交じる地区があったが,形態的にはジェネット間の差よりも地区間の差の方が大きいという結果を得ていた.その際にはエピジェネティクスまで踏み込めなかったが,その後興味を抱き,コンロンソウで野外のエピジェネティク空間構造を調べることになる.そして詳しい手法の解説と結果の概要が説明される.結果はおおむね以下のようなものだ.

  • 単一ジェネット内には予想通りメチル化に多様性があった.空間的自己相関解析から4mまでに有意な構造があり,近隣ラメット間で類似パターンが見られた.
  • さらに各遺伝子座のメチル化の有無の要因を個別に調べると,ジェネット間の違いと植生被度について有意差がある遺伝子座と有意差が無い遺伝子座が現れた.つまり遺伝要因,環境要因ともに影響は遺伝子座ごとに異なっていると解釈できる.
  • この空間構造を階層ベイズモデルで解析すると,影響していたのは空間的遺伝構造(クローン構造)のみとなった.これはメチル化されやすさのジェネット間差異が遺伝子間で異なることによる.植生被度の影響がなくなったのは,空間的遺伝構造と環境の空間変異の相関により空間的遺伝構造要因に集約されてしまったと解釈できる.

著者は最後にこのようなクローン生物はエピジェネティクス研究の理想型になるポテンシャルがあること,さらには実験系による検証が必要であることを指摘している.なかなか結果は微妙なものだが,今後の進展が楽しみというところだろう.

第7章 進化学を照らす新しい光?:エピジェネティクスによる適応的継代効果 田中健

第7章は第2部と第3部の橋渡しのような章になる.まず世代内の環境への反応としてリサーチされてきたエピジェネティクスだが,継代効果があるなら,進化適応にどう影響するのかという視点が加わることになることが,リサーチの流れとともに語られる.

  • エピジェネティクスへの関心が高まるなか,2000年頃から適応的継代効果のリサーチが進展し始めた.よく調べられているのは補食防御,病原菌への耐性などになる.
  • 有名なのは捕食者の臭いによりミジンコの頭部のトゲが長くなるというリサーチ.非生物的な環境に関しては林床に育つ植物についての光条件と葉の広さのリサーチがある.親の環境と子の環境に相関があれば,このような環境依存の表現可塑的な適応的な形質の継代効果も適応的になる.
  • ただし継代効果がこの適応度に影響しない,あるいは適応度を下げてしまうという例の報告も多い.
  • またこのような継代効果には親子間コンフリクトが生じうることも指摘されている.
  • 具体的にどのようなクロマチン修飾が継代効果を持つのかの実験的なリサーチもなされている.
  • なお適応的継代効果が進化現象の中でどれくらいの役割を持っているのかは全くわかっていない.次の課題は野外における具体的な実証になるだろう.

最後に著者は「親が獲得したことを次世代に伝えられるとするなら,それは遺伝子変化に身をまかせているだけでなく生物の積極的な関わりが進化速度や方向を変えることにつながり,進化の理解に『温かい彩り』を添えるだろう」とコメントしている.しかしなぜ生物が積極的にかかわると理解が温かく彩られるようになるのだろうか?これはいかにもピンカーのいう「感傷主義科学」のようでいただけない.
また「継代効果が種内系統や遺伝子型によって大きく異なるのは『進化力を高める性質』の淘汰として理解できるかもしれない」とも指摘している.これはドーキンスらによる「進化容易性進化」の議論の1つの基礎がエピジェネティクスにあるかもしれないという指摘になるだろう.これは,それがどの程度生じているかを含め,まさに興味深いところになる.

第3部 進化のメカニズムとエピジェネティクス

第3部では「エピジェネティクスが進化にどう関わるか」についてのトピックが扱われている.

第8章 進化の単位としてのエピゲノム:配列特異性を変える細菌のDNAメチル化系からの仮説 小林一三

本書はほとんど若手研究者の寄稿によっているが,本章だけは大御所の小林一三が著者となっている.大御所らしく俯瞰的位置からの理論的な問題を扱っている.

  • 伝統的な適応進化の考え方はゲノム配列が淘汰の単位というものだ.これに対立する考え方は,エピゲノム状態が淘汰の単位だというものになる.特に細菌ではエピゲノム状態のリセットは起こらずにそのまま次世代に受け継がれるのでそう考えるのに向いている.この場合ゲノム淘汰だけでは乗り越えられない適応地形の谷も乗り越え可能になりうる.これをここでは「エピジェネティクス駆動進化モデル」と呼ぶ.
  • バクテリオファージがホスト細菌に特異的に適応している現象は,細菌が自己認識標識を作成するものとしてのメチル化酵素(制限修飾系)とそのメチル化がないDNA配列を破壊する酵素制限酵素)の組み合わせによるある種の免疫系を持つのに対して,その細菌に破壊されないようなメチル化を持つバクテリオファージが,その細菌の免疫を無効化できるということで説明できる.これは攻撃と防御のアームレースを通じて細菌側のメチル化パターンの多様化につながり,さらにそれぞれのエピゲノムが独自の遺伝子発現パターンを発現させる.
  • またこの制限修飾系は,ある種の利己的遺伝要素だと考えることもでき,一旦組み込まれると(それがなくなると制限酵素に対象配列が破壊されてしまうために)ロックインされる.そしてこのような遺伝要素とこれに連鎖した遺伝要素は遺伝要素間競争において有利になりうる(ただし自ら無効化されて破壊されたときに,より自らのコピーが有利になるための空間構造等が必要になる*3.)
  • そしてこのような遺伝要素はトランスポゾン等の動く遺伝子によって移動する.そのような視点で考えると,制限修飾系と制限酵素は利己的遺伝要素の相利共生状態と捉えることもできる.
  • 異なる制限修飾系同士は対象DNA認識配列をめぐって競争状態にある.上記アームレースだけでなくこのような排他的競争も制限修飾系の多様化の一因となっているだろう.
  • 制限酵素はある意味パラサイトに対するホスト側の自殺型防御となるが,この防御が適応として成立するためには,やはり空間構造などの自殺後に自らのコピーが有利になる仕組みがある必要がある*4
  • パラサイトは感染を成功させるために修飾系と制限酵素のバランスを調整する必要があり.そのための巧妙な発現制御機構を持つ.またホスト側は,感染に対抗して,パラサイトと異なる修飾を行うような制限修飾系をぶつけて競争させる,破壊された配列の修復を試みるなどの対抗手段を持つ.

ホストとパラサイトのアームレース,その手段として制限修飾系と制限酵素の2遺伝要素があり,それぞれが利己的遺伝要素として競合しており,アームレースが二重になっている上に,自殺型脅迫と自殺型防御というある意味利他的な要素が加わり,著者がここで解説している状況は非常に複雑で興味深い.著者は最後に(少なくとも細菌については)エピゲノムこそが進化の単位だとしているが,そこはやや疑問だ.上記状況のかなりの部分は「どのDNA配列をどうメチル化するか」,「どのようなメチル化配列を破壊するか」という遺伝要素が単位になった進化動態であり,メチル化はその表現型の一部と捉える方がわかりやすいのではないかと思う.

第9章 有袋類を含めた比較解析から考えるゲノムインプリンティングの進化の謎 鈴木俊輔

この章ではゲノミックインプリンティングのメカニズムが扱われる.冒頭でゲノミックインプリンティングの概説がされた後,メカニズムが詳しく解説される.基本的にはDMRと呼ばれるゲノム領域が,父母どちらを由来したかによりメチル化パターンを変えることによってインプリンティングが可能になる.ここではどの領域が,どのような仕組みで異なるメチル化パターンになるかが解説されている.基本的には精原細胞と卵の成熟過程で異なるメチル化パターンになる.そしてその際にはレトロトランスポゾン由来の遺伝要素(PEG10)が大きな役割を果たし,胎盤の形成と深く関わりがある*5
この胎盤との関わりという視点から著者は有胎盤類,有袋類,単孔類のPEG10発現を比較することとする.問題のレトロトランスポゾンによるPEG10の挿入時期を推定したところ,単孔類との分岐後,有胎盤類と有袋類の分岐前に生じているという結果になった.今のところ有袋類で具体的なインプリンティングの表現型的な現象は知られていないが,調べてみるとインプリンティング機構はあり,実際にメチル化パターンが異なっているので,おそらく何らかのインプリンティング現象があるのだろうと考えられる.またインプリンティング機構はレトロトランスポゾンの挿入に対するメチル化による防御から起源しているのだとも推測されている.

ここでもエピジェネティクスとトランスポゾンの深い関係が明らかになっていて感慨深い.そしてそれがきっかけでゲノミックインプリンティングが可能になったというのも興味深い.被子植物の場合はどうなっているのかにも興味が持たれるところだ.

第4部 手法編

第4部はリサーチャー向けの手法の解説.第10章でDNAメチル化の解析法(西村泰介),第11章で植物におけるヒストン修飾の解析法(西尾治幾)が詳しく解説されている.

冒頭でも触れたが,エピジェネティクスまわりは感傷主義的ないろいろややこしい言説があふれていて,なかなか一般の読者には剣呑なトピックになりかけている.そういう状況では本書のように地に足がついた書籍は非常に貴重だ.実際こうして読んでみると,そもそもエピジェネティクスは,獲得形質の遺伝を説明しようとしたものではなく,発生の器官分化の説明から始まった分野であることがわかる.そしてクロマチン修飾現象全体にトランスポゾンや利己的遺伝要素が深く絡み,それらのアームレースの影響が極めて大きく,(用不用で獲得した形質がそのまま適応的でかつ遺伝するという意味で)ラマルキアンというより(メチル化パターンを適応的に利用するメカニズムが利己的遺伝要素単位の自然淘汰で生じたという意味で)むしろウルトラダーウィニアンな現象だと捉えることができるだろう.本書の中にも一部感傷主義的な文言が見られるが,具体的な記述部分ではきちんと事実や理論に基づいていて,特に大きな問題にはなっていないと思う.クロマチン修飾の継代効果が進化動態全体に与える影響はなお未解明で,おそらくそれほど大きくはないという印象だが,エピジェネティクス自体は進化動態周辺部分の極めて興味深い現象だというのが私の感想だ.エピジェネティクスに興味のある人がまず読むべき基礎文献だと思う.

*1:もう少しでマクリントックに先駆けることが可能だったのにという著者の思いが濃厚に現れている

*2:さらにそれはもともとはウイルスの抑制メカニズムであった可能性があることが第4章で解説されている

*3:著者はそういう解説を置いていないが,この意味では一種の利他的性質を持つために包括適応度上空間構造が必要になると捉えることができる

*4:ここも同じく一種の利他的性質を持つもので,包括適応度上空間構造が必要になるということになる

*5:ここではあまり深く解説されていないが,哺乳類の胎盤被子植物の胚乳は母から子への栄養移転にかかる器官であり,性質上特に父母間のコンフリクトが顕現しやすい場所になる