Enlightenment Now その74

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第23章 ヒューマニズム その4

 
ピンカーによるヒューマニズムの擁護.まず価値の議論をエントロピーと進化の視点を用いて行い,次にその功利主義的側面についての道徳哲学者からの批判に反論した.ここからヒューマニズムに真っ向から立ち向かう2つの信念価値体系(有神論的道徳とロマンチックヒロイズムイデオロギー)からの批判に反論していく.
  

  • ヒューマニズムは人々が理性的なときに収斂する道徳コードではあるが,薄っぺらいただの共通基準といううわけではない.それは非常に魅惑的な2つの道徳基準と真っ向から衝突する.それは「道徳は神の命令に従うことだ」という有神論的道徳と,「道徳は個人や国家の純粋さ,権威,偉大さで構成される」というロマンティックヒロイズムだ.後者は元々19世紀の思想だが,昨今の権威主義的ポピュリズム,ネオファシズム,オルタナ右翼にも見られる.
  • さらに多くのインテリは自分ではそれに賛同しないにもかかわらず,ロマンティックヒロイズムにはヒトの心理の真実の一片を捉えており,大衆には神の権威やスピリチュアルな英雄が必要なのだとする.彼等はヒューマニズムは間違っていないかもしれないが,ヒトの本性には反していると言う.そして心理学的コメントから歴史的コメントに進むのは簡単だ.彼等はヒトの本性に反したヒューマニズム(そしてリベラル的コスモポリタン的啓蒙運動的世界観)は不可避の崩壊に直面していると言うのだ.(具体例としてボストングローブの編集者の記事が紹介されている)

 

  • だとすると私は本書の書名を「啓蒙運動,とりあえず続いているうちは」にすべきなのだろうか.馬鹿な! 第2部で私は進歩の実態を描いた.第3部ではここまでそれを進めてきたアイデアとそれがなぜ今後も続いていくと考えるのかを論じてきた.ここからはヒューマニズムへの批判に反論していこう.批判者がどう間違っているかを示すだけでなく,ヒューマニズムの代案とされているものを徹底的に分析し,啓蒙運動の理想を捨てることがどんな結果につながるかを見ていこう.まず宗教的批判を分析し,それからロマンティックヒロイズムを分析する.

 
粗悪な進化心理学的議論を用いるイデオロギーに対するピンカーの怒りが透けて見える.このロマンティックヒロイズムがヒューマニズムへの最大の敵になるが,まず有神論的道徳からの批判への反論から始まる.この部分はピンカーの新無神論への傾きが見えるところでいろいろと興味深い.ピンカーの議論を詳しく紹介しよう. 
まず宗教家や宗教擁護者から浴びせかけられる言い方(後者のは最新のもののようで面白い)を紹介している.このあたりは一神教が優越する社会ならではということなのだろう.
 

  • 我々は神なしで善をなし得るのか? ヒューマニズムを信奉する科学者が押し進めた「神のいない宇宙」は科学の知見によって否定されたのではないのか? つまりDNAにあるという「ゴッド遺伝子」,あるいは脳の「ゴッドモジュール」は世俗的ヒューマニズムに対する有神論的宗教の優越を示唆しているのではないのか?

 
ここからがピンカーによる議論になる.

  • まず有神論的道徳を吟味しよう.確かに多くの宗教的道徳コードは殺人や暴行傷害や盗みや裏切りを禁じている.しかしもちろん世俗的道徳コードも同じものを禁じている.そこには明白な理由がある.理性的な人なら皆合意したいルールというのはあるのだ.そして当然ながら,これらは全ての国で法律にもなっている.
  • では人々がうまくやっていくために有神論的道徳が世俗的道徳に付け加えるものは何だろうか.最も明白なアドオンは超自然的な罰の遂行への信念だ.世俗的道徳遂行者はすべての罪を見つけて罰することはできないのでこれは魅惑的になりうる.

 

  • しかし有神論的道徳には致命的な欠点が2つある.
  • 第1に神が存在することを信じるべきよい理由がないことだ.よく持ち出される信仰,啓示,聖書,権威,伝統,主観的体験はそもそも議論にならない.むしろ信用できないことを示唆しているようなものだ.そして単に信じる理由がないだけではない,異なる宗教が神の数や神の要求などについて互いに相容れない信念を持っていることも大問題だ.
  • 神の存在についての神学者や哲学者の議論も皆健全ではない(数々の例が説明されている)一部の論客はそもそも科学はこのような宗教の議論を評価することはできないと言い張るが,科学は恣意的なルールで行うゲームではなく宇宙を説明するための理性の利用法であり,聖書に書かれている神の存在,非物質的不滅の魂の存在などは検証可能な仮説になる.もちろん一部の宗教擁護哲学者のように「時空と物理法則の創造のみ行ってあとは見守るだけの神」という議論は可能だが,そうなるともはや道徳には関連性がなくなるだろう.
  • かつて宗教は天災などの自然現象を説明してきた.科学の進歩と共に宗教の説明スコープは縮まり続けているが,科学が解明できていないことを説明する「ギャップの神」は(事実の説明としての)宗教擁護論のラストリゾートになっている.最近よく主張されるギャップは「物理の基礎定数のファインチューニング」と「意識のハードプロブレム」だ.しかし結局宗教のギャップの説明は「雷雨はゼウスがいかずちを投げているから生じる」というたぐいの説明でしかない.(物理定数の問題についてのマルチバース仮説を含めた詳しい説明,さらに意識の問題についてハードさはそもそもの概念のところにあること,どちらにしてもそれは不滅の非物質的魂には結びつかないことの詳しい説明がなされている)

 

  • もう1つの有神論的道徳の欠点は,仮に神が実在したとしても神の命令は我々の道徳の基礎にはなり得ないことだ.プラトンは「もし神の命令に従うことによい理由があるなら,そもそも神に命じてもらう必要はないし,よい理由がないなら従うべきではない」と言っている.要するに思慮深い人は永遠の罰で脅されなくとも殺人やレイプをしないし,逆に神に命じられても殺人やレイプをしないのだ.
  • 有神論的道徳主義者は,一神教の神は(ギリシャ神話の神々と違って)非道徳的な命令をしないと主張するが,聖書を読んだことがあればこれは嘘だとわかる,聖書の神は何百万人も無実の人々を殺し,イスラエル人にジェノサイドを命じている.今日の宗教家は旧約聖書の記述をチェリーピックしているが,それこそがポイントだ.彼等は聖書を啓蒙運動ヒューマニズムのレンズを通して読んでいるのだ.
  • よくある「無神論は我々を道徳相対主義に導き,そこでは誰もが好き勝手できるようになる」という議論はエウテュプロン*1的議論で反論できる.ヒューマニズム道徳は理性と人々の利益というユニバーサルな基盤の上にある.これに対して宗教的道徳こそが相対的だ.何のエビデンスもなく「神が言った」と言えばどんな内容でも道徳になってしまうし,それぞれの部族の宗教によって道徳は異なることになるのだから.
  • そして有神論的道徳は単に相対的であるだけではない.それは非道徳になり得るのだ.神は異端を殺せと命令することができる.不滅の魂という概念は現生のインセンティブを無効化できる.「神聖な」価値のために戦う者は妥協できなくなる.
  • 実際に多くの歴史家が宗教戦争は長く残虐になりやすいと指摘している.(一神教同士の宗教戦争,一神教の中の宗派対立による宗教戦争合わせて30の戦争で55百万人の死者が出ているというリサーチが引かれている)
  • では「2つの世界大戦は宗教的道徳が弱体化したために生じた」という主張はどうか.スティーブ・バノンによる「第二次世界大戦はキリスト教的西洋と無神論者の戦いだった」という主張は全くの「お馬鹿帽子の歴史(dunce-cap history)」だ.第一次世界大戦の主要対戦国はトルコを除いてキリスト教国だった.第二次世界大戦の主要対戦国で無神論の国はソ連だけだ.宗教擁護派は共産主義イデオロギーによる悲惨な戦争禍を持ち出してみたりするが,議論になっていない.もし宗教が道徳の根源なら,宗教戦争はゼロのはずだ.そしてそもそも無神論自体は道徳システムではない.有神論的道徳の代替選択肢はヒューマニズムなのだ.

 
有神論的道徳の欠点についての議論の骨子はまさにドーキンスやデネットの主張する新無神論の議論そのままだ.最後のバノンへの批判は最近の事柄で,この似非インテリのでたらめ振りへのピンカーの怒りがわかる.

*1:エウテュプロンはプラトンの初期対話篇の1つ.ここでは相手の理屈をそのまま使って反論する議論のことを指しているようだ