From Darwin to Derrida その65

 
 

第8章 自身とは何か その5

 
ヘイグのスミスの道徳感情論の読み込み.スミスはまず道徳の至近因(感情)と究極因(感情をヒトに与えた神の叡智)を区別した.ヘイグは至近因たる感情のその目的を効用と呼んでさらに区別する.

本能(Instinct)(承前)

 
すると私たちの感情は適応度とはずれることがある効用を目的としていることになる.そして他者はそこにつけ込んで私たちを利用しようとするかもしれない.これは進化生物学的にはよくある話だ.
 

  • 私たちの本能は他者の目的の手段として使われうる.これは広告主(そしてその株主)が,私たちの希望や恐れを使って裕福になるのを考えれば明らかだ.そしてそれはすべての形の説得について当てはまる.
  • カトリック教会が若い男性に宗教的理由から聖職について遺伝的繁殖をあきらめるように説得するときに,彼の動機は宗教的伝統という目的のために利用される.にもかかわらず,聖職者自身は(幸せで満足できる人生を送るなら)彼の感情のある部分については至近的な目的を得ることができる.さらに彼は自分の道徳律の目的に仕えて,大家族を持つように信者を説得することによって信者の遺伝子の目的に資することもできる.

 
そして効用を満たせば主観的には幸せになれる可能性が高いので,他者に利用されていても主観的にはWinWinであるかもしれないことになる.ここでヘイグは「カトリック教会」を他者としているが,ミーム複合体としての宗教を考えているのか,カトリック教会の支配層を考えているのかは明確ではない(どちらかといえばミーム複合体を考えているようではある).最後の文章では(宗教自体でも教会支配層でもなく)信者が受益者になっていてちょっと面白い.
ここからヘイグは「本能と学習」のテーマに移っている.
 

  • 遺伝子はより適応的でない結果を排除することにより,難しい方法を「学ぶ」ことができる.しかし遺伝子が「学んだ」最も有用なレッスンは,生得的なメカニズムの限界を突破するために経験から学習できる生物体を作るということだ.
  • 私たちは,目論見と実際のパフォーマンスのミスマッチから,練習と呼ぶ反復パフォーマンスから,遊びと呼ぶ模倣パフォーマンスから,推論と呼ぶ仮想パフォーマンスから学習する.そして私たちは他者のパフォーマンスからも学習する.
  • 私たちの模倣の能力は学習コストを個人間で分担し,専門知識を世代を越えて累積することを可能にする.
  • これらの方法により私たちは遺伝子に刻まれているのより適応的な情報を具現化できるようになった.私たちは本能的に理性的で文化的な存在だ.しかし理性と文化は私たちの感情を適応度以外の目的に向かって使うこともできるのだ.

 
なかなかわかりにくい展開だが,要するに進化は私たちを「学習能力のある生物」に仕立て上げた.それは私たちに理性と文化を与え,私たちは意識的に適応度以外のものを目的に行動することができるようになった.つまりドーキンスの言い方を借りれば「私たちは遺伝子の奴隷ではない,それに対してコンドーム1つで反抗できるのだから」ということになる.
 

利己的な遺伝子 40周年記念版

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