From Darwin to Derrida その125

 
 

第11章 正しき理由のために戦う その19

 
ヘイグによる目的論の擁護.発生システム理論の絡む論争がテーマとして取り上げられる.発生システム論じゃオヤマは発生にとって遺伝子が唯一の原因でないのだから遺伝子淘汰主義はおかしいと主張した.それに対してヘイグはまずフィッシャーの自然淘汰はアレルの相加的平均効果に対してかかるという洞察を提示した.ここからこの2つの立場の違いを解説する.
 

遺伝子淘汰主義と発生システム理論 その2

 

  • 遺伝子淘汰主義は,自然淘汰を通じてどのように情報がゲノムに取り込まれるか,そして何が自然にある明らかに目的的なものの原因なのかに関心を持つ.これに対して発生システム理論は,個体発生メカニズムを理解することに関心を持つ.あるいは,遺伝子淘汰主義はテキストの執筆に,発生システム理論はテキストの解読に関心を持つと言ってもいいかもしれない.このように考えると二つのフレームワークは相補的なものになる.何らかの価値があるテキストは,繰り返し読まれ,判断され,改訂されるのだ.

 
もともとの問題意識が異なっているという指摘だ.ヘイグは実に丁寧にこれを解説していく.
 

  • 二つの説明領域,伝達の垂直軸と発達の水平軸がある.ある者は世代間の遺伝情報の伝達に興味があり,他の者は世代内の遺伝物質の発現に興味がある.目的論的概念は両方の領域に登場する.伝達軸では目的因は適応度の究極的目的としての適応に現れる.発現軸では目的因は発達プロセスの最終到達状態,ゴールに向けた行動の至近目的として現れる.
  • 二つの領域の説明は異なる趣を持つ.というのは遺伝子から遺伝子のコピー伝達マッピングは直裁的だが,遺伝子型から表現型ヘのマッピングは悪魔的に困難だからだ.

 
この指摘は面白い.自然淘汰はアレルの平均効果にかかるものとして単純に数理化できるが,発生の仕組みは複雑でそんな単純化は不可能ということだ.

  • この伝達と発達という説明の2軸による概念区別は,シーのいう系統発生と個体発生の説明の区別,アヤラのいう究極的目的と至近的目的の区別,ヴァイスマンのいう生殖質と細胞質の区別,DNAの複製とRNAヘの転写の区別,テキストと解釈の区別,そして言及と語彙アイテムの使用の区別に対応する.

https://link.springer.com/article/10.1007/s10539-006-9046-6
https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/288276
https://www.nature.com/articles/041317g0
 
シーの論文「Representation in the genome and in other inheritance systems」は2007年.アヤラの「Teleological Explanations in Evolutionary Biology」は1970年,ヴァイスマンの論文は1890年のものだ.ヴァイスマンの論文はNature誌のものだが,「ヴァイスマン教授の遺伝理論(Prof. Weismann's Theory of Heredity)」という風変わりなタイトル(あるいは19世紀末にはこのような自称が入った論文タイトルは普通だったのだろうか)になっている.自然淘汰と発生が生殖質と細胞質の区別に対応するというのはいかにも深い解釈のような印象だ.

  • カントが「樹木はそれ自体の原因であり結果である」と二重の意味を記述したのは,同じような区別をしたとも解釈できる.樹木は,種として(伝達),そして個体として(発達)自分自身を作り出すのだ.

 

  • 進化的疑問と発達的疑問を概念的に区別することが生産的かどうかというのが,現在の苛烈な論争の主題だ.ある者は区別は必須だと主張し(グリフィス 2013),ある者はそれは理解の妨げだと主張する(ラランドら 2013).区別を支持する者の多くは機能を原因とすることに好意的で,区別を支持しない者の多くは「機能は原因ではない,・・・行動の結果はその生起を決められない」としてそのような考えから距離を置きたがる.

 
進化的疑問と発達的疑問を区別することが理解を妨げるという(進化システム主義者の)主張は(私のような自然淘汰に興味のある読者には)全く理解不能だ.何が知りたいかによって概念を区分することこそ理解を深めるのに役立つだろうに.
 

  • 我々は二元論,区別,対立を好む,それは複雑な問題を2値の選択に還元できる力を反映している.生物学哲学の多くの論争,そして自然科学と人文科学の間の多くの論争は,平均効果の還元的簡明さと相互作用の豊饒さの間にある緊張,原因を部分に帰させる簡潔な切り札(the meager trump)と全体の統合の壮麗なウーリッツァーパイプオルガン(the glorious Wurlitzer)の間にある緊張を反映している.
  • しかし我々にはこの2つのどちらかを選ぶ以外のオプションがある.私たちはデュエットを歌うこともできるのだ.(多分私はここに示した曖昧な用語選択について説明しておくべきだろう.trumpというのは口琴の古い呼び名でもある.わたしがここでtrumpを使ったのは,ピアースの「実験の簡素な口琴」と「観察の壮麗なオルガン」の二項対立的な叙述をほのめかすためだ)

 
というわけでヘイグは,発生システム論者の主張の奇妙さについてはちょっとほのかめかすにとどめておき,どちらもそれぞれ興味深い真実に迫る相補的な立場だという和解案を提示しているということになる.なかなか最後のtrumpをめぐる蘊蓄も楽しい.