書評 「魚にも自分がわかる」

 
本書は最近毎年のように動物行動学会でホンソメワケベラの認知能力(特に鏡像自己認知能力)について驚きの発表を行っている幸田正典の手になる一冊.まさにそれら一連の研究結果がまとめられた書籍になる.
 
冒頭の「はじめに」において,10年前に「魚が鏡像自己認知できる」ことを発見したが,それは当時常識を逸脱した内容とされ,なかなか受け入れられなかったこと,そして当時はガリレオの心境だったことが述べられている.しかし著者はこれを乗り越えて,追試を含めて次々に驚きの発見を続けていく.本書のその発見と主流への挑戦の物語りになる.
 

第1章 魚の脳は原始的ではなかった

第1章は物語の前段である,「なぜ『魚などに鏡像自己認知できるはずがない』という『常識』が形成されていたのか」が解説される.それは脊椎動物の脳についての認識の問題が関連する.

  • 1970年代まで脊椎動物の脳の構造については「マクリーン仮説」が受け入れられており,(哺乳類へと至る進化段階において)爬虫類までは脳幹と大脳基底核のみ(爬虫類脳),原始的哺乳類の段階で,海馬・帯状回・扁桃体という大脳辺縁系が付け加わり(旧哺乳類脳),最後に大脳皮質が加わり高次の脳機能の中枢が加わった(新哺乳類脳)とされていた.そして当時の(古典的)動物行動学は本能(生得的反応,刺激反射,低認知)か学習(思考,洞察,予測など)かの二律背反的捉え方で理解されていた.
  • これによると魚類や鳥類は脳が単純なので複雑な認知や行動はできないと考えられていた.ティンバーゲンのトゲウオの研究は,トゲウオのオスは腹部の赤い色という単純な刺激をリリーサーとして相手を攻撃するという内容になっている.
  • しかし21世紀になりマクリーン仮説は間違いであることが明らかになった.脳の各構造は脊椎動物の進化の段階で少しずつ付け加わってきたのではなく,魚類の段階ですでに大脳・間脳・中脳・小脳・橋・延髄と全てそろっていたのだ(ユーステノプテロンの化石でも確認されている).また神経核や神経領域をめぐる神経回路網も基本的に脊椎動物の5綱でよく似ており(おそらく相同),ヒトで見られるいくつかの錯視が魚でも生じていることも確かめられている.
  • そして動物行動の研究も1980年代からは行動生態学が主流となり,魚がきわめて複雑な戦略的行動をとれることが知られるようになった.
  • これらのことから魚類にも高い知性がある可能性があることがわかる.しかしその視点からの魚類の研究は遅れていた.

 
確かに昔はマクリーン仮説は事実として扱われていたように思う(確かカール・セーガンの「エデンの恐竜」でもそのような記述があった覚えがある).このあたりはいわれてみればその通りというところだ.そして脳構造の知見が改められ魚にも大脳があるとわかった後も,あんなに目立たない小さな領域で洞察や自己意識的な複雑な認知はできないだろうという気分は深く残っていたということだろう.
 

第2章 魚も顔で個体を認識する

第2章は鏡像自己認知の前段である個体識別認知の話になる.ここは著者の研究物語として語られる

  • 社会性の魚類集団ではナワバリや順位行動が見られ,彼等が個体識別をしていることがわかっていたが,どうやって行っているかはわかっていなかった.またサンゴ礁の小魚は捕食魚と藻食魚を顔つきで区別しているらしい.あるいは個体識別も顔でしているかもしれない.そこで調べてみた.
  • 共同繁殖するシクリッドの一種プルチャーには顔(眼の後ろ)に模様があり個体ごとに異なっている.彼等は隣人と見知らぬ他人を区別して攻撃頻度を変える.そして隣人と他人の全身画像,顔だけ入れ替えた画像を用意し,誰を攻撃するかを調べると,確かに顔で個体識別していることが明らかになった.(行動的に顔をのぞいていることも確かめた)
  • そして社会性のある魚類にはほぼ全て顔の模様に個体変異がある.その中のいくつかの種(スズキ目のディスカス,カダヤシ目のグッピー,トゲウオ目のイトヨ,ダツ目のメダカ)でも同じ実験をして,そのすべてで顔で個体識別していることが確かめられた.
  • ヒトには顔認識に特化した神経系があることが知られ,顔倒立効果(顔の識別が倒立顔では困難になること)があることが知られている.調べてみるとこの倒立効果は魚にもあることがわかった(顔でない物体の場合には倒立効果が出ないことも確かめた).ヒトのそれと相同な顔識別神経系が魚にもあるではないかと考えている(顔認識相同仮説).

 

第3章 鏡像自己認知研究の歴史

第3章は鏡像自己認知研究の歴史が語られる.これもなぜ魚の鏡像自己認知が受けれられにくかったかの背景となる.話はデカルトから始まる.

  • デカルトは自己の存在を顧みる能力(自己意識)はヒト特有であって動物にはないと考えた.彼は動物には言語がなく,本能のみで行動し,その行動パターンは刺激に対して反射的に反応する紋切り型であることをその理由とした.これは西洋哲学に大きな影響を与えた.
  • これは1970年にギャラップにより実証的に覆される.ギャラップはチンパンジーが鏡で自分を認識できることをマークテスト(鏡像自己認知をしたと思われる動物を麻酔し自分では見えないところに赤いマークをつけ,麻酔から解けたときに鏡を見てそのマークを触るかどうかを見る)を使って確かめ,マークテストに合格するということは自分の姿のイメージを持続的に持っていることを示していると主張した.
  • この発表は大きな影響力を持ち,様々な動物で同じテストが行われた.オランウータンやボノボはテストに合格したが,マカク類であるアカゲザルは合格できなかった.ゴリラはなかなか合格できずに理由をめぐって議論が生じた.最終的に幼い頃からヒトと生活をしていた個体が合格し,ゴリラも鏡像自己認知ができるとされた.検証が困難だったのはゴリラは野生生活では他個体の顔を見ることを避けているからだと推測されている.
  • さらに様々な動物でテストが行われ,21世紀になってこの鏡像自己認知ができる動物リストにはイルカ,ゾウ,カササギが加わった.しかしイヌ,ネコ,ブタ,オウムなどの多くの動物では失敗している.
  • これらの結果を受け,ドゥ・ヴァールはゾウやイルカやカササギの鏡像自己認知は大型類人猿とはそれぞれ独立に進化したと考えた.ギャラップはゾウ,イルカ,カササギの実験結果についてサンプル数の少なさからこれを疑問視し,鏡像自己認知ができるのは大型類人猿だけだという立場をとっている.

 

第4章 魚類ではじめて成功した鏡像自己認知実験

第4章でいよいよ著者による魚類の鏡像自己認知研究が解説される.

  • 著者の研究室ではここ10年ほど魚類の推移的推察の検証実験を行っていた.その中でカワスズメの一種であるトランスの水槽に遊び半分で鏡を入れてみたところ,当初鏡像を見知らぬ他個体と見て攻撃を繰り返していたトランスが4〜5日すると攻撃しなくなることに気づいた.これはチンパンジーの反応とよく似ている.そこで色素の皮下注射によるマークテストを試みたがマークについて特別な反応はなかった.これは鏡像自己認知していないという結果となるが,単にマークが見えていても気にしないだけではないかという疑問が生じた.
  • そこで対象魚をホンソメワケベラに替えることにした.ホンソメワケベラは社会性を持つ魚類で,高い認知能力があることがすでにわかっており*1,野外での社会生活もよく調べられていた.さらに近くの熱帯魚屋で1匹500円で入手可能で飼育も容易という利点もあった.
  • 鏡を入れてみると最初の2日は攻撃を行い,次の3日ほど攻撃頻度を減少させながら不自然な行動(チンパンジーの確認行動と類似し)をとり,5〜6日目頃から攻撃も不自然な行動もしなくなる.
  • そしてマークテストを行うと,彼等はそれに合格した(コントロール実験の詳細が説明されている).彼等はマークを砂や石にこすりつけ,さらにその後取れたかどうかを鏡に映して確認するような行動も取った.ポイントは寄生虫に似せたマークを皮下注射により入れたことだ.彼等は野外で客の大型魚だけでなく自分の寄生虫も取ろうとする.だから寄生虫に似たマークが自分にあることがわかれば,それを取ろうとするのだ.
  • この驚きの結果を論文にして早速サイエンスに投稿したが,査読者から様々な疑義が出され,それに応える追試とデータをそろえて再投稿した.魚類研究者と思われる査読者2名は好意的だったが,霊長類(あるいはヒト)研究者と思われる査読者2名は納得せず,結局リジェクトとなった(強硬に反対した査読者がギャラップであったことがのちにわかる.著者は編集者は権威に屈したようだとコメントしている).ショックを受けつつもサイエンスはあきらめPLos Biologyに投稿した.ここでも査読者の意見は割れたが,最終的に編集者が「短報」という扱いではどうかと提案してきたのでそれに乗ることにした.ともあれ2019年2月に論文は掲載された.

 

第5章 論文発表後の世界の反響

第5章では論文発表後の反響とそれに対する対応が書かれている.

  • 驚きの発見であったので論文への反響は大きく,世界中の魚類の認知や行動の研究者は皆賛同して受け入れてくれたが,霊長類学者や動物心理学者からは厳しい批判がなされた.特に大御所のドゥ・ヴァールとギャラップはそれぞれ批判論文を出してきた.(ここでギャラップとドゥ・ヴァールによる(著者によればイチャモン的)批判の要点と,著者のそれに対する追試を含めた実験に基づく反証が詳しく解説されている.その詳細は大変面白い)
  • これらの実験結果からホンソメワケベラが鏡像自己認知を行っているのは間違いない.ホンソメワケベラ実験のポイントは彼等が寄生虫を取ろうとする性質を持ち,マークテストにはそれを利用した「生態的マーク」を使っているところだ.
  • そしてホンソメワケベラの鏡像自己認知実験の成績がきわめて良い(チンパンジーでも40%程度の個体しか成功しないが,ホンソメワケベラでは18個体中17個体が成功)のは,これまでの様々な動物のマークテストでは生態的マークが使われていなかったことが理由であり,従来のマークテストは実際には(鏡像自己認知できる動物にとっての)「マークへの関心」テストになっていたのだと考えられる.

 

第6章 魚とヒトはいかに自己鏡像の認識するか

ではホンソメワケベラはどのように鏡像自己認知しているのか.これを実験で確かめることは難しいように思えるが,著者は巧妙な実験によりそれを解き明かしていく.説明は理論的な整理から始まる.

  • 「鏡像自己認知ができることは何らかの『自己意識』があることを意味する」というのは研究者の間では異論がないところになる.そして自己意識は外見的自己意識(自分の手足などが自分であることがわかっている),内面的自己意識(自分という心的表象を持ちそれと照らして自己認識している),内省的自己意識(自分が内面的自己認識していることを自覚している)に分けて議論される.
  • そして自己という心的表象の証拠を示すことは難しく,動物が鏡像自己認知できる状態が外見的自己意識に過ぎないのか,内面的自己意識まで認められるかについては決着がついていなかった.
  • 私は第2章で説明した魚類の顔による個体識別認識の事実から,ホンソメワケベラの自己顔心証認識仮説(彼等は自分の顔の心象をもとにした内面的自己意識を持っている)を提唱し,確かめることにした.
  • ホンソメワケベラにも顔に個体特有のそばかす模様がある.そして実験してみるとホンソメワケベラも顔による個体識別能力があることがわかった.その上で,鏡像認知する前,した後で,自己と他者の画像,顔と全身を入れ替えた画像にどう攻撃するかを調べた.結果はクリアーで,彼等は(全身ではなく)顔の模様で自己かそうでないかを区別していた.彼等はヒトと同じく自己顔の心象,内面的自己意識を持っていたのだ.
  • そして(マークテストが単なる関心テストになっていたことも踏まえると)社会性を持つ脊椎動物の多くは顔の心象に基づく鏡像自己認知をしており,それは(ドゥ・ヴァールのいうように大型類人猿,ゾウ,イルカ,カササギで独立に進化したのではなく)相同形質ではないかと考えられる(自己意識相同仮説).

ここで著者は2020年1月のシンポジウムにおいて,招待されたドゥ・ヴァールの前でホンソメワケベラの鏡像自己認知研究を講演する機会を得たときのエピソードを語っている.どのように批判されるかと緊張して講演した後,ドゥ・ヴァールは「素晴らしい発表だ」と絶賛してくれ,その後の懇親会で意気投合したそうだ.
 

第7章 魚類の鏡像自己認知からの今後の展望

最終章はこれまでの知見を受けてのアイデアや今後の展望がいろいろと語られている.自由に書かれていて楽しい.

  • ヒトは,顔,名前,エピソードを異なる神経メカニズムで記憶しているようだ.知らない個体を攻撃し,お隣さんには寛容になる魚にもエピソード記憶があるのかもしれない.
  • ホンソメワケベラは寄生虫が自分についているのを鏡で認識し,そこからどこで擦ろうかを考え始めるだろう.これは寄生虫がついている自分というものを自覚してはじめてできることであり,彼等は内省的自己意識を持つと考えることができるのではないか.そして複雑な社会関係の中では自分が相手を,相手が自分をどう思っているのを認識していることの自覚があるほうがうまく行動できるだろう.(ここでは内省的自己意識の定義,どのように検証できるかなどがいろいろと考察されている)
  • ティンバーゲンのトゲウオの下半分が赤い石膏モデルを使った鍵刺激実験は教科書にも載せられているが,再考すべきだ.トゲウオが赤いという鍵刺激だけで行動を決めているとは考えられず,追試をしてみたところ,普通の状態のオスは下半分が赤い石膏モデルに全く反応せず,直前に本物のオスで興奮させたオスのみが反応した.これはトゲウオが天敵が少ないという環境で興奮しやすいという性質を進化させたと解釈すべきだ.
  • 鏡像自己認知能力自体は淘汰産物ではないだろう.社会性動物がもつ他者を個体識別する能力の副産物と考える方が良いだろう.
  • イカも鏡像自己認知ができると報告されている(ただしマークテストには合格していない).彼等は鏡像に対し他者に対するのと全く異なる行動(すーっと近寄り鏡を触る)を最初から見せる.これは大変示唆的で,おそらく脊椎動物の鏡像自己認知と相同ではないのだろう.
  • ホンソメワケベラの鏡像自己認知がいつ生じるかを調べると,あるとき突然に理解するユーレカの瞬間があることがわかった(実験の詳細が示されている).これも鏡像自己認知ができる脊椎動物では共通して見られるのではないか(相同である)と考えている.

 
以上が本書の内容になる.これまで大型類人猿ときわめて認知能力が高いとされる極くわずかな動物のみが合格していたマークテストにホンソメワケベラが合格したという驚きの結果,そしてそれが,実は生態的マークを使うという実験の工夫によるものであること,であれば実は(ある程度以上の社会性を持つ)多くの脊椎動物は鏡像自己認知が可能であり,それはおそらく相同で,皆顔を使って個体識別そして自己認知をしているのだという議論が実に流れよく説得的に提示されている.この文脈ではイカの鏡像自己認知との違いが特に印象的だ.動物の認知に興味がある人にとってはとても興味深い一冊になっていると思う.
  

関連書籍
 
カール・セーガンによる知能の進化についての科学啓蒙書.「コスモス」の陰に隠れているが,これも名著だった.原著が1977年の刊行で内容は本書にもあるように古くなってしまっていると思われる

 
原著.エデンの〝恐竜〟ではなくエデンの〝ドラゴン〟が原題になる.


 
イカの鏡像自己認知についてはこの本に書かれている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20111028/1319810526

*1:自己制御(目的のために我慢できる),意図的騙し,罰などの行動が知られているそうだ.