読書中 「The God Delusion」 第6章 その2

The God Delusion

The God Delusion



道徳の起源.続いてはハーバードの生物学者マーク・ハウザーによるリサーチの紹介だ.これはもし我々の道徳感覚が我々ヒトのダーウィニアン的な過去に根ざしているのなら,それはヒューマンユニバーサルであり,宗教の違いを超えて普遍的であるだろうという予想に関するリサーチであり,「Moral Minds」という本に著されているらしい.

手法はネット上のアンケートというのが今日的だ.結果の面白いところは様々なジレンマに対して,各地の人々は違う理由を挙げながらとる選択肢はほとんど同じだというところだ.要するに我々の道徳を動かしているのはヒトが進化で獲得したユニバーサルな道徳文法であり,それは言語の深層構造と同じく普段意識的には気づかないのだということらしい.

アンケートの詳細も紹介されている.ジレンマは5人を救うために1人を犠牲にするかどうか.

列車がこのまま進むと5人轢いてしまうが,ポイントを切り替えると1人ですむという場合,ほとんどの人はポイントを切り替えると答える.鉄橋の上で荷物を落とせば列車が止まるという場合にはもちろん荷物を落とすが,それが夕日をながめている太った男である場合に,その人を突き落とすかと問われるとほとんどの人は否定する.我々はなぜかこの2つのケースが本質的に異なると考えるのだ.そして5人の病人を救うために1人の健康な人を殺して臓器をとるかといえば誰もが反対する.


カントはこれが絶対的な道徳律だと説明し,「人(rational being)は同意なく何かの目的のために使われてはならない」と表現した.偶然そこにいるのか,それを積極的に利用したのかが善悪の分かれ目だと言うことだ.ハウザーによれば進化的に得られたヒューマンユニバーサルとしての道徳の深層文法と言うことになるのだろう.


そしてさらに興味深い結果が得られている.

もし引き込み線の代わりに引き込みループ(結局5人が待っている主線に戻る)があり,そこにいる太った男を轢くとそれ(太った男が列車に轢かれることににより生じる摩擦)により列車が止まる場合はどうか.多くの人はここでポイントを切り替えるべきではないという.最初の例と何が違うのだろう?多くの人は無意識にカントの原則を適用しているのだ.では太った男の代わりに鉄塊(これは列車を止められる)がありその前を痩せた男(これだけでは列車を止められない)がいる場合にはどうか?人々は今度は切り替える行為を是認する.


ドーキンスは自分もそう感じるがこれを合理的に正当化することは難しいのではないか.つまり絶対的道徳律というより進化で得られたものと考えた方がよいのではないかと示唆している.なかなか面白い発見だと思う.私も同じように感じる.読んでいてちょっと物足りないのはこう感じることの適応的な説明がないところだ.


いずれにせよこれは道徳に神は必要でないことの裏付けのひとつになる.



次にドーキンスが問題にするのは,一部の宗教家が行う「神がいないなら何故人は善を行うのか」という主張だ.
ドーキンスはこれに対してまず善とは何かという観点で答える.
「本当に善を行う理由は神に見られてその歓心を買うためだけだと主張しているのか?監視カメラに見られて罰を受けないためだけに行うことは本当に善と呼べるのか?」「本当にヒトは見張られていなければ悪なのだろうか.私はそんなこと信じたくないし,読者のあなたも同じではないだろうか.」
マイケル・シャーマーはこれをディベートストッパーと呼んでいると紹介している.曰く「もし神のいないところなら盗みも強姦もするというならあなたは不道徳者だ.もし神がいなくともよい行いをするなら,善になるのに神は必要ない」
確かにこの宗教擁護派の主張はあまりにナイーブだろう.


これについての証拠の議論.
相関リサーチは決定的なものがないと前置きしながらも,アメリカのレッドステート(共和党の基盤,保守であり,よりキリスト教的)とブルーステート民主党の基盤,リベラル)ではよりレッドステートの方が犯罪率が高いことを紹介している.



続いてよりナイーブでない宗教擁護派の議論.

もし神がいないのなら,絶対的な道徳の基準がなくなるだろう.良い人になろうとして,どうやって善悪を見分けるのか?宗教だけがその基準を与えられる.それがなければすべてはその人の恣意的な判断になってしまう.ヒトラーさえ自分の行為を正当化できるだろう.


ドーキンスは前置きとして,もしこの主張が正しいとしても,神があった方がよいというだけで,神が実在するかどうかとは無関係だとした上で,この問題は何が善かという基準の問題だとする.


(ここからはまた難しい哲学の議論だ.うまく紹介できる自信はないがトライしてみよう)
ここで宗教と無関係に道徳律を導き出そうとした試みとしてカントの定言命法が紹介される.

「あなたのその行為についての行為原則(格率)が同時に普遍的な道徳律に従うように行動せよ」(一般には「汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」というように表されるらしい)

ドーキンスは,この試みは「嘘をつかない」というような道徳律はよく説明できるが,すべての道徳律(尊厳死や中絶や同性愛に関するもの)は導き出せないだろうと悲観的だ.


しかしドーキンスはあきらめることはないとつなぐ.
ここでその他の道徳哲学者の議論をまとめる.

彼等は「道徳律は理性によって構築されている必要はないが,しかし理性で防衛できるものでなければならない」という点で一致している.彼等は自分たちをいろいろ分類しているが,重要な区別は義務論(deontology) (カントなど;ある行為の善し悪しは,その行為や意図がルールに沿っているどうかで判断される)と帰結主義(consequentialism) (ベンサムなど;ある行為の善し悪しは,最終的には結果の善し悪しで決まる.この一派として功利主義がある)だ.
義務論自体は道徳律絶対論と同じではない.ただし宗教的絶対論者は常にまず絶対的なルールがあり,それは結果とは無関係だと考える.すべての絶対論者が宗教に依存しているわけではないが,実際上宗教なしに絶対的な道徳律を説明することは難しい.

要するにこの節の議論は「神がいなければ道徳は相対的で恣意的になってしまうか」というところに集約される.哲学者の意見は一致しないが,宗教の意見は絶対的な道徳律があるというものだ.そしてそれは通常聖なる書物に書かれている主張になっていると結んでいる.この節の後半の議論の筋は追いにくいが,帰結主義からは「神がいなくとも道徳は相対的で恣意的になりはしない」と答えられる.絶対論ではすべての道徳律は普通説明できないが,宗教はそれがあると主張するということのようだ.次章ではその絶対的道徳律の宗教側の根拠である聖書について議論される.



第6章 道徳の起源:我々はなぜ善なのか?


(2)道徳の起源についてのケーススタディ


(3)神がいないのなら,なぜ善になるのか





関連書籍

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

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文中で紹介されたハウザーによるもの.面白そうだ.