読書中 「Moral Minds」 第4章 その7

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong



第12節はサイコパスについて.
サイコパスについていろいろな説明の後,彼等は共感を持たず,道徳と社会習慣が区別できない,他人の権利や幸福が踏みにじられることに関心がなく,権威が認めれば何でもできてしまうと解説されている.
サイコパスのイメージング研究も紹介されている.サイコパスは注意と感情に関する部位の活動が鈍いそうだ.興味深いのは成功するサイコパス(他人を殺す)と失敗するサイコパス(他人を殺す前に捕まる)の差という記述だ.それによると両者には海馬は攻撃抑制の中心である海馬の大きさに差がある.失敗するサイコパスは正常人と比べてもより海馬の右側が大きく,抑制と判断の結びつきがまずく,状況判断に失敗するのだろうと説明されているが,それはサイコパスだからそうなのだろうか.なかなか微妙な記述だ.


ここまでの有力な考え方は,サイコパスは感情に問題があるために慣習と道徳の区別ができず,服従のサインを出している人への暴力本能の抑制ができないというものだ.しかしハウザーは別の解釈として彼等の失敗は行動の正邪の判断と感情を結びつけられないことにあるという考え方も提示している.この考え方の差も微妙な気がする.


ロールズやヒューム的モデルに戻ると,道徳的な悪はより重大な感情を引き起こす.すると道徳的なルールは2つの成分があることになる.ルールの知識とそれに伴う感情だ.ここでハウザーは哲学者ニコラス・ショーンの考え方を紹介している.
ニコラスは,ヒューム的な考え方から,感情の欠如だけではサイコパス,そして道徳は説明できないとしている.

まずいやな感情をもたらす悪いものがすべて道徳的な悪ではない.子供が崖から落ちたり,交通事故は悪いことbadだが,道徳的に罰しなければならない邪悪wrongではないのだ.ニコラスの考えかたからは2つの予測がなされる.

  1. 人々は感情を直撃する害とそうでない害を区別する.
  2. 害のない習慣からの逸脱でも感情の注入により道徳的な悪となる.

1は明らかだ.2についてニコラスは実験を行った.パーティでボブは自分の水のグラスにつばを吐いた.これは許されるか,どれほどいけないことか,ホストがあらかじめ許していても駄目か
このように聞かれた被験者はあたかも害のある暴力と同じように答えた.ホストが許してもこれは許されないことだと.そしてつばを吐くことについて嫌悪感が強いほど,これを道徳的な悪だと答えたのだ.

しかしこのケースでホストはパーティ参加者の1人にすぎないわけだから「権威」とは認めにくいのではないだろうか.許可があったとしてその「真意」は違うところにあるのではないかという推測があるかもしれないような気もする.ちょっと微妙な実験設定だ.


なかなかこの節の主張はわかりにくいが,要するに嫌悪感が道徳的な悪wrongの重要な要素になっていて,そしてそれが慣習と道徳の差である,サイコパスは暴力の抑制の問題だけではなく,嫌悪感が結びつかないために道徳が理解できない問題でもあるということになる.
ハウザーは少なくとも道徳の一部は感情から来ているのだ.その部分はヒューム的なモデルが妥当しているのだとしている.しかしいやなことだが邪悪でないものもあるわけだから(たとえば意図せずに吐いてしまったもの)感情だけではなく,ロールズ的なモデルも必要なのだといっている.


最後にハウザーはサイコパスはヒトが攻撃抑制するシステムを持っていて,時にそれが失われることを示している.今のところリハビリはうまくいかない.おそらく発達の早い段階で損傷を受けているのだろう.さらに強い生得性があるのなら治療は今考えられているより難しいだろうとのべている.
サイコパスによる犯罪にどう立ち向かうべきかは難しい問題なのかもしれない.



第4章 道徳器官


(12)罪なき殺戮