読書中 「Moral Minds」 第5章 その1

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong



今日から第5章だ.第4章は脳内で何が起こっているのかについていろいろな話題を取り扱っていた.
第5章のイントロでハウザーは本章の目的は前章までで見てきた道徳が実際の生活の中でどう機能しているかを見ることにあると説明している.特に道徳判断ができるとして,それをどこまで実行できるのか.誘惑に負けることなどを考えていくらしい.


最初の第1節はゲノミックインプリンティングの解説から始まる.そしてハンディキャップ理論にも触れて,新生児が親を操作すること,そして親子のコンフリクトを考察していく.このハンディキャップの説明のところで涙の進化的説明がされている.
泣き声はハンディキャップ理論で理解できる.泣き声にはコストがかかる.涙を出すと視覚が妨げられ,さらにコストがかかる.面白いが何となくできすぎの説明のような気もする.もちろん実証はされていないのだろう.


さてコンフリクトに戻って,ハウザーはいきなり「どのようなときに子を殺すことが許されるのか」という設問をしている.応用問題その1としては中絶,嬰児殺しを取り上げるようだ.


ここからの議論はなかなかシリアスだ.


まず胎児は母親に制限なしにアクセスする権利があるのかどうかを考える時の計算を考えよう.すべての人は生存に権利を持つ,だから胎児にも生存の権利がある.一方母親は個人として自分の身体に対して権利を持つ.もし胎児の生存の権利が優先すると考えるなら,議論は終わりだ.中絶は認められない.

これはよくわかる.中絶反対論者はまさにそういっているのだろう.これに対抗するには胎児の生命の権利は母親の身体の障害リスクより,あるいは身体の自由より価値が低いことを認めるしかないと考えるのが普通だ.つまり胎児はどこまでヒトかという議論になる.だからアメリカではこの対立はプロライフとプロチョイスと呼ばれる.しかしここからのハウザーの議論はひねりが入っている.


しかしトムソンのシナリオを考えてみよう.ある朝目覚めるとあなたはベッドで腎臓障害を持つ有名なヴァイオリニストと血管がつながれていた.あなたのみが血液の型が適合するのだ.もし9ヶ月間つながれていればそのヴァイオリニストは助かり,世界中の音楽愛好家は喜ぶ.あなたはつながれ続けなければならないだろうか.道徳哲学者はあなたはその義務を負わないと考えている.徳ある行いはすなわち義務ではない.ネットで質問してみても皆同じように答える,それは義務ではないと.

この例は秀逸だし,結果は驚くべきものだ.実際に私もこれは義務でないと感じる.確かにこの例を考えると単に1人の生命と別の人の身体の自由のどちらが重いかという価値判断の問題でないことがよくわかる.またも普段気づいていない無意識原則に遭遇したのだ.ハウザーは続ける.


この場合私たちはどのように判断しているのだろうか.
ヴァイオリニストには生存の権利がある.その権利があなたの身体の自由の権利を上回るのならあなたはつながれたままでいる義務を負うことになる.しかし私たちはそうは考えない.中絶の場合とは異なる考え方をするのに違いない.あなたは最初につながれたときに同意をしていたわけではない.コミットメントしていないからだろうか.
ではつながれたときに同意をしていればどう感じるだろうか.ネットで質問するとそれは義務になるという答えになる.彼等はこれをいったん代理出産に同意した代理母が中絶をする自由があるかという問題と同じにとらえている.加害が許容されるかどうかはコミットメントと関連するのだ.

通常は自分自身の自由は他人の命より重いが,それをそうでなく扱うという約束をすれば,その約束に従う義務が生まれるという感覚だろう.約束は自分自身の身体の自由より重いのだ,なるほど.では約束は自分自身の命より重いのだろうか.どこまで予見できない悪い結果が生じるならコミットメントに従わなくとも良いのだろうか.ハウザーはそこについても議論を進める.



しかしこれだけが関連するパラメーターではない.では次の問題を考えよう.胎児の存在が母の健康に悪影響を与えるとき,その生命を危険にするときに中絶は許されるか?確実に母親が死んでしまう場合にはどうか.自分自身が食べるだけの収入しかなかったらどうか.男の子を望んでいたのに女の子だったら,そしてもし女児を出産したら鬱病にかかるのだとしたら.このうちどれが許されるかをどうやって判断するのだろう.

このあたりは難しいところだ.私の感覚では妊娠自体は胎児の命に対するコミットメントだとは感じられない.だから中絶はかなり許されるという感覚だ.だからさっきのいったんヴァイオリニストにつながれることに同意した場合に従って考えると,これは悩ましい.最初にコミットしたときにそのリスクをどれだけわかっていたかに関連するのだろうか.少なくとも命のリスクを予見していなければ,これはチューブをはずすのが許されるのではないだろうか.するとこれはリスクの予見というまたも新しいパラメーターということになるだろう.
ハウザーはちょっと角度を変えて論じている.



中絶は殺すという行動を伴っている.妊娠継続は母が死ぬかもしれないことに対して不作為にあたる.誰がこの状況を作り出したのだろう.母はパートナーと妊娠を始めた.しかしそれだけなら母は死ななくても良いはずだ.妊娠中毒が原因なら,その原因は胎児自身が作っていると言える.(ゲノミックインプリンティング)しかし母が健康ならこのインプリンティングには余裕で対処できたはずだ.母の直接のゴールは自分自身を守ることだ.予見できない因果により彼女は胎児を傷つけなければならない.ヴァイオリニストと違って胎児自体が彼女にとっての脅威なのだ.

ハウザーは誰がそのリスクを作り出したのかという観点を問題にしているのだ.確かにこれもパラメーターの一つなのだろう.ヴァイオリニストがタバコを吸うためにリスクが生じたのならチューブをはずすのは是認されるだろう.もっともハウザーの例のようにゲノミックインプリンティングによる胎児の責任というのは,私の感覚では疑わしい.胎児にはいわゆる「意図」があるとは思えないからだろうか.するとまた別のパラメーターということになるだろう.



ハウザーはこのように内省的に考えることにより私たちの心理に善悪を判断するロールズ的なデザインを見つけることができるだろうと主張している.上の議論はその例なのだろう.そしてハウザーは医療が進歩して進化によって形作られた心理では対処できないジレンマが増えつつあると指摘している.



第5章 許される本能


(1)胎児の誘惑