読書中 「The Stuff of Thought」 第3章 その8

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


2番目の極端な議論,極端プラグマティックスへの反論.


これまで,この極端な議論の名前について「プラグマティズム pragmatism」と書いてあると思い込んでいたのだが,optical_frog さんにご指摘いただいて,これが「プラグマティックス pragmatics」「語用論」だということがわかった.(http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080125/1201199508
知らないというのは恐ろしい.お恥ずかしい限りだが,ちょっと調べてみると「日本プラグマティックス学会」http://homepage1.nifty.com/raikou/paj/ ,「日本語用論学会」http://wwwsoc.nii.ac.jp/psj4/ という学会もあるようだ.
ウィキペディアでは「語用論は1960年代の哲学者ジョン・L・オースティンの発話行為の研究に端を発し,ジョン・サールによる適切性条件の議論や,グライスによる協調の原理の解明によって一定の到達点に達した.その後は、グライスの理論を批判的に継承したディアドリ・ウィルソンとダン・スペルベルによる関連性理論と呼ばれる枠組みが展開されている.
語用論は統語論などの研究者から見れば枝葉の研究と見なされがちである一方,実際の使用と切り離して文法や意味の理解に至ることはできないという立場をとる研究者もいる.」などと解説されている.最後の1行は本書での極端プラグマティシストの取り扱いも含めて含蓄がある.


さて,本書の議論に戻ろう.極端プラグマティシストの議論が間違っているとしたら,自由な連想のように使われている多義語はどう説明すればいいのだろうか.


ピンカーは時に人は自由に言葉の意味を使うことを認めつつ,それには誤解されるコストが伴っていると指摘する.そしてそのコストが実は言語にぴりっとした刺激を与えてくれるのだという.はっきり書いていないが,このような刺激を与えるための言い方という意味で制限,あるいは類型があるし,それはそもそも原型としての言葉の意味がしっかりあって初めて可能になる用法だということを言いたいのだろう.そして自由連想的な多義語の使い方の深い森をのぞきに行く.


ピンカーはここで4類型ほどあげて説明している.


まず
<婉曲語法と偽悪語法(dysphemism: わざと悪く言う言い方)>


ウェイトレスが仲間同士で「端のテーブルのハムサンドが勘定したがってるわよ」などといったり,医者が患者を臓器に見立てて言うときは,乾いたブラックユーモアの雰囲気を出しているのであり,本人や家族には聞こえないところでしか言わない.
一般的に人をその身体の一部やその特徴で呼ぶのは偽悪語法であり(アジア系の人を a slope, a slant, ネイティブアメリカンを a redskin メキシコ系をa wetback と呼ぶような用法),逆に人をその上位関係概念(hypernym: 普通に心に浮かぶカテゴリーより広いカテゴリー)で呼ぶと婉曲語法になる.婉曲語法は厳密には多義語ではないが,言葉の使われ方の原理をよく示している.

婉曲語法もいろいろ紹介されているが面白いのはマーケティングのスーツ組(これ自体広告代理屋に対する偽悪用法だろうか?)が使う広告用語だ.
driving machine (car), photographic instrument (camera), beauty bar (soap), dental cleaning system (たぶん歯ブラシのことだ)


日本語でも基本は同じだ.もっともマーケティング用語の傾向はちょっと違うような気もする.訳のわからない横文字を使う方がそれらしい感じが出て優先されているようだ.とりあえず,自動車を運転機械とかカメラを写真道具とか言うコピーはあまり見たことがない.ちょっとしたソフトを何とかシステムなどという例はあるかもしれないが.


次に
<Subtext 言外の意味>
ここは皮肉が効いていて面白い.多くの社会科学者の本のタイトルが「ロマンティックラヴの発明」「リアリティの建設」など実際に建設されたり発明されたりしないものとなっているのは,読者の注意を引いて自然に発生したように見えるものに背後に何か事情があるという含みを伝えるためだという.


和書にもあるだろうか,ちょっと調べると「神の発明 」「 万葉集の発明」「ナチスの発明」「人間像の発明」などのタイトルの本があるようだ.


あと
<言葉遊び><文学的比喩 literary metaphor>などが取り上げられている.


ピンカーは以上の用法があるのは,そもそも聞き手の心には伝統的な意味があり,何にでも変形可能な胞子があるわけではないからなのだと説明している.まず聞き手の心に本来の意味があるからこそ可能になる用法だということが言いたいようだ.



最後にピンカーはコネクショニストのモデルを具体的に批判している.
ピンカーはHow the mind works のときから一貫して,脳をコネクショニズムからだけ理解しようというスタンスに批判的だ.要するに彼等は人の心が自然淘汰により進化適応として作られたモジュールであるということを理解せず,すべてコネクションだけで脳が建設できるという立場であり,いろいろな生物の適応を見る限り,ヒトの脳がそのようになっていると言うことに賛成できないというスタンスのようだ.


さてとられている例はジェイムズ・マククレランドとアラン・カワモトのコンピューターシミュレーションだ.
彼等の主張は with の多義性「ルークはフォークでパスタを食べた」「ルークはクラムソースでパスタを食べた」,主語の多義性「ボールが窓を壊した」「少年が窓を壊した」などの問題を解決するのは固定した意味論では無理であり,これを解決できるのは緩い連想ネットワークだというものだ.

そしてシミュレーションでは文章をインプットして,5W1Hの解釈をアウトプットにする.入力は数千のニューロンのようなネット枠で,その1つ1つは動詞の意味の特徴(化学的に変化させる,意図的な動作など)やその他の文章の構成要素の特徴(主語は柔らかい,目的語は女性など)を表している.出力は2500のユニットである解釈における文章の構成要素の役割を表している.(主語は丸い,切断に使われる道具は固いなど)
モデル上は単一の単語の意味はない.連結があるだけだ.そしてトレーニングに応じてそれが緊密になる.
数千の文章をその解釈とともに提示すると連結のうち強化されるものが出てくる.そしてフォークで食べるときには「道具」をソースの時には「いっしょに」という連結を持つようになる.


ピンカーの批判のポイントは,このようなモデルで単語の意味を完全に可変にすると時にとんでもない解釈が引き出されるというものだ.
The wolf ate chicken. を解釈させると,この chicken については eat と連結している意味「鶏料理の一種」と解釈する.
The bat broke the window. を入力すると,両方の解釈のキメラである「コウモリがバットで窓を壊した」と解釈してしまう.これはヒトなら絶対にしない解釈だ.期待と文脈だけに依存すればこうなる.


完全連想ではこのような多義性に対応できないはずだというのがピンカーの言いたいことだろう.多義性がきちんと使えるためには言葉の固有の意味,文法的な規則がないと無理だということだ.


ピンカーは最後にこう言っている.

極端プラグマティックスは言語のデザインスペックを理解していない.言語は私たちにまったく新しい現象やアイデアを表現することを可能にしているのだ.これを可能にするには固いレバーとかっちりした支点が必要だ.そしてそれが言葉の意味や文法のルールであるはずだ.
婉曲語法や言葉遊びは,まさに言葉通りの意味と文脈から期待される意味が異なっていることに依存しているのだ.

第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)


(2)極端プラグマティックス