読書中 「The Stuff of Thought」 第3章 その11

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

ピンカーの考え,概念意味論(conceptual semantics)への極端な対立仮説,言語決定論の主張の続き.
ここからは真打ち.過激な論点を含んだ主張になる.ピンカーは3つまとめて扱っている.


8.言語の単語と文法構造は,彼等がしゃべっていないときもその推論に強い影響を与える.


9.思考の媒体は実際の単語や文章だ.だから名前のない概念について考えることはできないし,因果は言語から思考に向いている.母語に概念がなければ思考上の盲点の様なものになる.


10.2つの文化が概念のずれた言語を話していれば,相互理解はできない.


もしこれらがほんとうなら,重大な結果を招くだろう.特に10の主張にしたがえば,人類の相互理解に重大な影響があるはずだ.ピンカーは,しかし言語決定主義者は全然意に介しないとして,ウォーフ自身の言葉を引用している.

私達は,母語により引かれた線にしたがって自然を解剖する.私達は自然を切り分け,概念を組織化し,重要性を位置づける.それは私達が,同じ発話社会の,言語のパターンの上にコードされている合意の上にあるからだ.そしてもちろんその合意は,黙示のものだが,それは絶対に必須のものだ.


これだけではそこまで過激な主張だとも断定できないような気がするが,とにかくピンカーは,このような言語決定主義は,ニーチェウィットゲンシュタインハイデッガーロラン・バルトなどの哲学者にも影響を与えているし(それぞれの引用がある),最近では雑誌サイエンスのレターにも科学者のものの見方に英語のSVOシステムが影響を与えているという主張が紛れ込んだといっている.

もっともピンカーはほとんどのネオウォーフ主義者はもっとソフトタッチであることは認めている.しかしタイトルやサマリーには「言語はあなたの考え方を決める」などの過激な言葉を使うそうだ.そういうタイトルを使う方が受けが良いという風潮があるのだろうか.


さて具体的な考察だが,ピンカーはまず言語決定主義を主張するには次の3つを示さねばならないと規定している

1.ある言語の話者が自然に考えるやり方が,別の言語話者に理解不可能だということ
2.その別の考え方は単にものごとを捉える視点が変わると言うだけでなく,ある推論による問題解決が不可能になるようなものであること
3.そしてその違いは単に文化が違うからという理由でなく,言語により引き起こされていること


次に言語決定主義者の主張を具体的に見ていく.


シェイとケアリーの実験
10ヶ月の幼児について形でものを区別できないが,12ヶ月になるとこれを区別する.そしてこれはものの名前を覚える時期と一致する.


ピンカーは実はものを区別できるようになるから言葉を覚えられるという逆の因果の方がありそうだと反論している.さらに(言語を解さない)リーサスモンキーでもものの区別について同じ実験結果を示すことを指摘している.



次に心理学者ゴードンの南米インディアンの数の概念に対する主張.
ブラジルのピラハ族は数に関して,「1」と「2」と「たくさん」という言葉しかない.
ゴードンはピラハ族は3から8までの正確な数についてうまく扱えないことを示した.木の実と同じ数の電池のグループをうまく指し示せなかった.彼等の反応は量的に相関はしていたが,正確ではなく,数が多いほど誤答率が高かった.(これらはアナログ的な量推論システムの特徴だ.これらは数の言葉とは独立にある)ゴードンは数の言葉がないから数の思考がないのだと結論している.


ここで面白いのはピンカーによる3までしか数の単語がない現象についての解釈だ.シャノンに聞いた話ではヤノマモ族は普段数を使う必要がない.これはほとんどのものを個別のものとして認識しているからだというのだ.彼等は矢を一本一本認識しているので,どれがはずれたか数えなくてもわかるのだそうだ.なかなかすごい話だ.

そしてこれをうけてピンカーのゴードンへの反論はやはりこれは因果が逆だというものだ.生活様式や歴史,文化が原因で,数の言葉がないことは結果だというものだ.
ピンカーは,言語決定主義が正しいなら,たまたま何らかの語彙(例えば数)がないために同じような環境下で違う語彙の人々が発達させている文化的な活動(数学)ができないというようなことが観察されなければならないが,実際には文明が進むと,数のシステムを近くから借りたり,自分で発展させたりして簡単に数学を受け入れるのが通常だろうといっている.


実際に日本語は大和言葉では数のシステムは貧弱だが,中国から精緻なシステムを借り入れてうまくいっていると考えることができるだろう.(大和言葉の数では,10以上は「とお」「もも:100」「ち:1000」「よろず:10000」があるが,「とお」「はた:20」ぐらいまでが数える場合の実際の上限で,「もも」以上はたくさんという感じの使われ方だったのではないだろうか,一説では中国のシステムが入ってきてから「もも」以上ができたらしい)


そしてゴードンのサイエンス誌への報告のまさに同じ号に,ピラハ族のコントロールグループ(文化的には同じで,数の言語だけが異なるような民族)が報告されていると皮肉っている.ブラジルのアマゾンのマンデュルク族は同じような文化だが,数は5まで持っている.しかし彼等の数の使い方はピラハ族と同じ(正確な数ではなく a couple のように使う)で,3以上の数の計算はアナログ量的に行っている.つまり5まで単語を持っていても変わらないということだ.
因果が,文化→言語というのは説得力があるが,このマンデュルクの話が,3と5で文化が違わないからといって,反論になっているのかどうかは微妙な気もする.


次に人類学者レヴィンソンの主張
メキシコのツェルタル族は一般的な「右」「左」という単語を持っていない.ツェルタルはものの位置を山のスロープに関係して表す.スロープの上に(通常南),スロープの下に,スロープを横切って,と言う具合だ.彼等はこれを平たい場所でも使う.「スプーンはカップの”スロープに対して上”の方にある」というのだ.
レヴィンソンは彼等はものの順番を私たちと同じように覚えられないと主張する.彼等は鏡のイメージに混乱するが,南北に対しては室内にいても非常に鋭いという.
レヴィンソンはまずテーブルに3つのものを並べ(カエル,魚,ハエ),その被験者に対して反対側のテーブルに「同じ」順序で3つのものを並べて欲しいと依頼する.「同じ」というときにツェルタル族は南北に対して同じ配置を選ぶが,オランダ人は左右に関して同じ配置を選ぶ.これがレヴィンソンのいう3次元空間に対する認知の言語決定だ.


これではどちらをより好んでいるかを示しているだけで.ものの順番を私達の同じように覚えられないとは主張できないだろう.ピンカーはまずできないことが示せていないし,仮に示せても単なる相関に止まっており,因果の証拠のなっていないだろうと手厳しい.
ピンカーは人がものの位置に対するレファレンスシステムにどのようなものがあり得るか(地理フレーム,オブジェクト中心フレーム,自分中心フレーム)を詳しく説明し.空間認知の専門家は人はこの3つをすべて使えるし,簡単にフリップできると考えていることをここで述べている.たしかにマンハッタンのような島やボストンのような都市でも uptown downtown crosstown, inbound outbound などを語を使う.

これは日本でも同じだ.地方都市では南に海があれば,南北に対して海側,山側という言い方をし,地図は普通上を北に書く.東京などの都市住民は,駅に対してどうなっているかを気にした地図を書くことが多いだろう.(最近はGoogleマップの普及により変わってきているかもしれないが)


ピンカーは続ける.ではツェルタル族は本当に言語のために自分中心の左右のフレームを制限されているのか.心理学者は彼等を部屋の中で椅子に座らせて回してみた.2つのはこのうち1つにコインを入れて,コインを入れた箱を覚えておくようにと課題を与えた.床に置いた箱の場合と,椅子の肘掛けといっしょに回した箱の場合で,いっしょに回した場合の方がむしろ良く覚えていた.彼等が自分中心のフレームを持たないということはない.つまり彼等はどちらでもとることができるのだ.
そしてなぜツェルタルが地理フレームを好むのか,それは山の斜面に住んでいる農民でほとんどを戸外で過ごすからだという.説得的だ.


第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)


(3)言語決定主義