「心の起源」

心の起源―脳・認知・一般知能の進化

心の起源―脳・認知・一般知能の進化



本書は一般向けというより,もう少し専門的な端正な書物である.著述密度は高く,読み進むには結構体力が必要だ


ヒトの心の進化的な成り立ちの解説としてはいろいろな本があるが,これまでは領域特殊的ないわゆる「モジュール」部分が強調されて説明されることが多い.それはなんといっても,言語能力とか,心の理論とか,だまし検知モジュールとかは,あまりヒトの認知能力について考えたことのない人にとっては驚きの能力であり,その進化的な起源も単一の特定課題に対する適応として非常に興味深い仮説になるからだ.


本書はモジュール的でない,いわゆる一般的な知能の進化的な考察についてのこれまでの知見をまとめた総説本だ.なぜモジュール的な領域特殊能力以外に,他の動物には見られないような高い一般的な知能がヒトにはあるのだろう.認知科学の発展が続く現在,これはますます興味深い問題になりつつある.


さて本書はまず第1章で本書全体の構図を丁寧に紹介してくれる.本書のようなやや固い総説書では,読書中に時に叙述の流れを見失うことがよくあるのでこれは大変親切な作りだ.


本書の流れが頭に入ったところで,第2章は自然淘汰の簡単な解説.通常の解説に比べると社会的な淘汰圧の解説が詳しいのはある意味当然だろう.第3章はホミニッドの進化.興味の中心はいつ大脳の増大が生じたのかというところだ.まずエレクトゥスのところで増大し,その後50万年から20万年まで緩やかに増加,さらに2万年前ぐらいまでに急激に増加し,その後少し小さくなっている(!)と紹介されている.著者はこれは2万年以降はそれまでの淘汰圧が弱まったのだろうと理由付けしている.


淘汰圧については詳しく考察されている.まず,気候的な淘汰圧が重要だったとは考えられない,増大化の初期には生態的淘汰圧が,そして生態系の中で超捕食者に進化した後は社会的な淘汰圧が重要だっただろうというのが結論だ.
面白いのはミトコンドリア遺伝子と,Y染色体遺伝子の分析から淘汰圧について考察している部分だ.男性は集団にとどまり,女性が移動したパターンとともに,男性は血縁を基盤とした同盟に,女性は移動してきた先の集団での社会的関係作りが重要だっただろうと推測している.

本書における淘汰圧のキーワードは「コントロールへの動機」である.社会的淘汰圧は,結局集団の他者に対して,より有利な社会経済的地位を得ることが重要であり,それは他人,社会関係を如何にコントロールするかに大きく依存しているという認識である.そしてこのコントロールへの動機が,個別の社会的課題に対するモジュール的な知能だけは対応しきれない,他者の予測不可能性への対処,自分自身が予測不可能になるための戦略としての一般的知能の理解のために重要なのだ.さらにこの一般的知能は,コントロールするために,望ましい世界を生成し(メンタルモデル),それに近づくためにシミュレーションする能力(ワーキングメモリ)をもっているとするのだ.コントロールの強調はいわれてみれば当たり前のようなことだが,いったん中間目標として「コントロール」をあげると,一般的知能を考えるときにいろいろと見通しがよくなるのは実感できる.


第4章では具体的に一般的知能の淘汰圧を考える.
ここではまず比較神経生物学,比較遺伝学,比較生態学の知見が紹介されていて興味深い.哺乳類の新皮質と皮質下領域はヒトも含み,作りとしては共通している.そしてヒトとチンパンジーの最大の違いは遺伝子自体ではなく,その発現頻度にある.もっともこの部分はまだこれからという分野のようだ.また哺乳類の新皮質はそれぞれの生態に応じて特殊に発達している.アロメトリーや脳の持つトレードオフにもふれたあとで,著者はヒトの脳の淘汰圧について,普遍的な環境に対応する能力はモジュール的な固定的な構造を,可変的な環境に対応するものは柔らかなモジュールや可塑的な構造を生み出すだろうと予想している.


第5章ではヒトの心の能力をカテゴリー分けする.
素朴心理学,素朴生物学,素朴物理学という分け方がまず提示され,それぞれの能力において普遍の入力に対しても固定的な,可変的な入力に対しては可塑的なモジュールが対応していることを見る.特に社会的関係は可変的であり,モジュールも柔らかいとしている.またより可塑的なモジュールはより長い発達期間を必要としただろうとしている.


第6章は問題解決に向けた知能について
ここは特に力が入っている.固定的な入力があるような問題についてはヒューリスティックスとよばれる固定的な問題解決モジュールが進化していることをまず見る.顔の認識,感情の認知などがこれに含まれる.経験にもとづいて発達するモジュールもこれに含まれる.
しかし予測不可能性が支配する社会的な戦略などにおいてはヒューリスティックスに頼らない対抗戦略が重要になる.これが一般的な知能を生み出すのだ.本書で面白いのは,ダーウィンとウォーレスが自然淘汰を導き出した過程をその例として使っていることだ.そして興味深い著者の主張は,一般知能の重要な特徴の1つはヒューリスティックスによる解決を抑制することだという点だ.これは代謝レベルでの観察事実にも合致している.


第7章では一般知能をさらに細かく見ていく.
メンタルモデル,ワーキングメモリ,実行コントロール,そしてその働き方が示される.このあたりは最新の認知科学の知見が紹介されていいて,興味深い.注意の持続,自己認識,心理的タイムトラベルの能力が重要であることが強調される.


第8章では,ここまで説明された一般知能と,IQ検査から得られる g との関係が説明される.
まずこれまで知られている,様々なIQに関する知見が紹介される.なかなか政治的に微妙な話題なので,きちんと紹介されることの少ない問題であるが,客観的にまとめてあって,参考になる.g は現在では流動的知能 gF と結晶的知能 gC に分けて論じられることが多く, gF はワーキングメモリと関連があること,特に注意のコントロールを維持し,無関係な情報によって注意がそらされることを防ぐことに関係していることを説明している.また脳サイズは gF と中程度の相関があるが, gC とは相関がないことなども紹介されている.
行動遺伝学的な知見も丁寧に紹介されていて,まとめ記述として参考になる.ちょっと面白いのは,前頭葉の容量に見られる個人差は環境より遺伝の影響が強く,後頭葉の容量は遺伝より固有環境に影響されているという部分だ.また容量に関する遺伝的な影響はアロメトリー的なものとそうでないものの両方がある.これだけではなかなか全体像は不明だが,今後いろいろ面白いことがわかってくる気配を感じさせる.
またIQの解釈についての重要な知見もいろいろと紹介されていて興味深い,いわゆる共有環境の影響の重大な側面は,本来の潜在的な能力の開花に対する制限要因としての側面が強いこと,Flynn効果として知られるIQの歴史的増大傾向も同様に解釈できることなどは示唆するところが多いだろう.
結論としては知能の高い人の特徴は,情報のわずかな変異を素早く見抜き,素早く一貫して処理するところにあり,それは注意を持続させるワーキングメモリの働きが重要だということが強調される.また第7章までに見たコントロールのための一般的知能は,IQの能力に加えて自己認識モデルが必要であるとも述べられている.


第9章は,では現代において一般的知能にどのような意味があるのかを考える.
この章も力が入っている.著者の理解では一般的知能に対する淘汰圧は2万年前以降は弱くなっている.しかしそれでも現代でもこれは重要であり,またヒトの本性としての動機的な傾向が見られるはずだというものだ.
まず現代社会でもIQの高い人たちは成功しやすいことが示される.学歴,学業成績,成功,知能はそれぞれ正に相関しているので見極めは難しいが,因果関係は知能から成功へ向かっていることは否定できないようだ.特に職務パフォーマンスに限ると,IQはこれまで示された要因の中では唯一パフォーマンスを予測できる要因であるそうだ.
この章では最後に gF と進化的に新しい学習過程(読み書きなど)に関する認知的な問題が詳しく考察されていて興味深いものになっている. gF はこの能力の最初の段階のみに関連し,素朴心理学などのモジュールも重要な役割を果たしていて,完全に発達した能力は gF を支えているのとは別の認知と脳のネットワークによっているようだという野心的で面白い考察になっている.


本書は一般的な知能について,様々な角度からの情報を総合し,進化的に考察するという重厚な取り組みを行っていて,現時点での総説としては非常に参考になる書物だと評価できる.またところどころに著者独自の説明などもなされており,総説にありがちな乾燥した雰囲気を和らげている.全般として歯ごたえのある書物であり,心して読み込むほどに味が出てくる書物に仕上がっていると思う.




原書



The Origin Of The Mind: Evolution Of Brain, Cognition, And General Intelligence

The Origin Of The Mind: Evolution Of Brain, Cognition, And General Intelligence


amazon.jpではThe Origin Of The Mindとなっているが,正しくは The Origin of Mind
定冠詞の有無についてはこの場合よくニュアンスがわからないが,もともとはダーウィンのThe Origin of Species を意識した書名なので,この方がしっくり来るのだろう.