読書中 「The Stuff of Thought」 第4章 その1

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

さて今日から第4章だ.章題は Cleaving the air.大気を切り裂くという不思議な題だが,これはカントの純粋理性批判の一節からきているようだ.

軽やかに飛ぶ鳩は,自由に飛翔しながらその大気を切り裂いていて,その抵抗を感じているだろう.もしかしたら鳩は空気がなければもっと容易に飛べるのにと想像しているかもしれない

ピンカーの言いたいことは,「私達は世界を,心の中の物質,空間,時間,因果の認知にしたがって認識しているのであって,世界をそのまま理解しているわけではない.しかしそれはそんなに悪いことではない,カントもこのような心の助けを得て私達は現実に対処できるのだと言っている」ということらしい.本章はそれを実際に言語においてみてみようという章になる.


本章では第1節にはいるまでの前置きが長くなっている.
これは私達が世界を真の姿で認知していないことを説明する部分がふくらんでしまったようだ.
最初の前置きでは旅に出た際に目覚ましのためにPDA(こちらを1分早く)とホテル備え付けアラームの両方をセットしていると,PDAがホテルアラームを引き起こすような気がしてくることにふれている.


そしてヒトの認知は空間,時間,因果の感覚にいかに制限されているかという例が並べられる.私達はケンタウルスでも視覚化できるが,レモンの隣に(右でも左でもなく)林檎があるという図は視覚化できない.時間が止まったり遅くなったりしたりすることもほんとうには想像できていない可能性が高い(単に物事が止まったり遅くなったりしているだけで時間は変わっていない)
無限という概念や時空の始まり,さらには「自由意思」も取り上げられる.

私はアラームが鳴るように時計をセットする.しかし誰が私をそうさせたのか.ニューロンや電子に戻れば何らかの因果があるはずだが,しかし意識的には私は自由意思を持っているような気がする.また逆に自由意思はそれまでのことと無関係にランダムに生じはしない.ランダムなら責任も生じないだろう.文脈や道徳に依存しているならそれは「自由」なのか.


ここで,ピンカーはヒュームとカントを登場させる.
ヒュームは「あることが別のことの結果として続いて起こる」という信念を正当化することはできないと考え,すべては相関だとした.
カントは宇宙の法則から因果を説明できると考えた.真の観察者は「何が,どこで,いつ,どうして」の世界に住み,現実を理解していると考えたのだ.


時空と因果は私たちの世界を構成しているけれども,その認知にかかるパラドックスは,この概念が,無矛盾が必須ではない私たちの心に由来していることを示している.確かに世界はあって,私たちの感覚に訴え,私たちの心をコンテンツで満たし,だから幻覚ではないことがわかる.



そしてその足場を言語の中で見ていこうというのが本章だ.枠組みはカントの構成にしたがっている.


仮想的に考えればヒトの感覚の種類に沿って構成される言語を考えることができる.それは「植物」「動物」「道具」「血縁」というような概念に代わって「光景」「音」を足場にする言語になるだろう.
しかし現実の言語はカントのいう抽象的なカテゴリーによって構成されている.私たちはそれを発話の基礎に見ることができる.名詞における物質,前置詞における空間,動詞における因果,動詞や時制における時間だ.


いかにもこれから本題に入りますというそぶりを見せたあと,ピンカーはさらにカントについて多くを語る.


まずカントが批判されている点について

今日の多くの哲学者は,カントの「現実をそのまま知る可能性の否定」を曖昧だと考えている.物理学者はカントのいう時空経験の曖昧さについて議論している.日常経験とは異なり,空間はユークリッド的ではなく,物体によって曲げられ,ブラックホールや(おそらく)ワームホールによりワープされ,11以上の次元を持ち,私たちの視点により相対的に測定される.時間も経験的に感じる確実な流れではなく,4次元時空の1次元で,マルチヴァースの結節点を構成しているかもしれない.このような物理学の理解は私たちの経験的感覚と異なっている.またカントは陰気な書き手だ.そして,そもそも「人」の心について語っているのか,「合理的観察者」について語っているのかはっきりしない.私はカントはヒトの心以外について語っているはずはないと考えているし,カント哲学者パトリシア・キッチャーはカントは認知心理学者になりたかったのだと考えている.カントが実際にヒトについて主張していたかどうかは心の謎にはとりあえず関係ないだろう.

ここからピンカーによるカント解釈.この解釈はなかなか面白い.

カントは合理主義と経験主義の統合を試みたのであって,それは今日の「氏か育ちか」論争にも有効だ.心は単に感覚に連関している(カントの時代の経験主義かつ今日のコネクショニズム)わけではない,また現実の知識を持って生まれ出でたもの(カントの時代のある種の合理主義かつ今日の極端生得主義)でもない.心が生得的に持っているのは,経験を組織化する抽象的な概念セットなのだ.これは空間,時間,物質,因果,数,論理だ.(今日ではこれに.生きているもの,他者の心,言語を加える)しかしこれらの概念の中身は空白で,感じたことや想像により獲得していかなければならない.
カントのこのような考え方は今日もっとも隆盛であり,チョムスキー言語学進化心理学,領域特殊性と呼ばれる認知発達の考え方に現れている.カントは「氏か育ちか」論争を見越していたとも言えるだろう.


またカントが現代的なのは時間や空間について感覚が招集される媒体だとしているところだ.論理的にいえば視野は,それぞれ色と明るさ,位置,方向,深さを持つ斑点と線のデータベースだ.しかし心理的にいえば空間のポジションはまったく異なっている.空間は視覚できるものが配置される媒体であって,単にいくつもある目的物のデータベースのエントリーの1つにすぎないわけではない.馬の背に人が乗っていることは想像できても,ウマとヒトが(左右の別のない)抽象的に隣り合っていることは視覚的に想像できない.位置は単に心の中の視覚の必須項目であるのではなく,目的物を個別化する主要な貢献項目なのだ.

この長い前置きの最後でピンカーはこう言っている.

ヒトの知覚と想像には単一の時間と空間に関するモデルがある.そして(現代物理学によると)現実には多様な時間と空間のモデルがある.
そして本章では言語に表れる時間と空間はそれのどれとも異なっていることを見ていこう.


第4章 大気を切り裂く