読書中 「The Stuff of Thought」 第4章 その4

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


英語の名詞の構造からは,人はものについて「形と境界があるか」「個別物からできているか」という観点で把握していることが示唆される.これはその人の母語が何かによって影響を受けているのだろうか?


ピンカーは,そのような言語決定主義を否定し,心理学者のナンシー・ソジャ,スーザン・ケアリー,エリザベス・スペルケの実験を紹介する.
(通常発話の中にはまだ可算不可算の区別がない)2歳児に見慣れないもの(銅製の配管用のティーとか,ピンクのジェルの滴など)を与えてみる.そしてこれは my tulver として子供に教える.そして先に見せたものと形が同じで材質が違うものと,材質が同じで形が違うものを見せて,「どちらが the tulver か指してみて」と頼むのだ.子供は可算か不可算かということについて言語的な手がかりは与えられない.
銅のティーの場合,子供は銅のコイルよりプラスティックのティーを選ぶ.そしてジェルの場合には最初のと同じ形のハンドクリームより,別の形のピンクのジェルを選ぶ.
つまり彼等は自分の発話で可算不可算を区別する前に「もの」と「材質」を区別しているのだ.固体ではっきりした形をしているものについては同じ形を重視し,液体で不定型なものについては材質を重視する.


さらにピンカーは発話者が言語的な制約を簡単に覆すことができることを指摘する.人は不可算名詞複数を「種類」にまとめることができる.樫や松やマホガニーを woods と言えるし,ニベアやいろいろな化粧品をまとめて creams とも言える.逆もできる.


例文としては
 I'll have two beers.
 There was cat all over the driveway.


物質の認知的構成において言語が障害になっていないことは明らかだ.



このような認知的構成は,rocks は rock からできていて, glasses は glass から, beers は beer から cats は cat からできている.モデルはあるものがある材質からできていないと壊れる.
また私達が,顕微鏡的にものを見てもこのモデルは壊れる.
rice はコップ一杯ならライスだ,ひとつかみまで,そしてぎりぎり一粒のかけらまではライスと呼べる.しかしもっと顕微鏡的に見ると,どこかでライスではなくなる.ライスの分子やライスの原子というものはない.

ピンカーはヒトの知覚が,直接結晶や分子を見ることができたら,可算不可算の区別を持たなかっただろうと推測している.


そして制約を覆して操作できるということは,心はおよそどんなものでも,境界のある個別アイテムとして可算名詞にも,不定形の材質として不可算名詞にも構成できる認知的なレンズを持っていると考えることができるということを示している.


ピンカーはこの能力を示す言語現象として mass hypernym (超不可算名詞?)をあげる. mass hypernym とはfurniture, fruit, clothing, mail, toast, cutlery(刃物) などだ.これらは特に材質を特定しているわけではない,また個別の「もの」を指しているわけでもない.何かを指すときには特別の classifier 分類辞を必要とする.a stick of furniture, an article of clothing, さらに一般分類辞としては a piece of がある. a piece of と言うときには,これはその破片とかごく一部という意味ではない.しかし家具やトーストや刃物からなにか数えられるものを指すときにはこれを使わざるを得ないのだ.


ピンカーによると中国語などいくつかの言語ではすべての名詞が不可算名詞のように振る舞う.それはある種類だと言うことだけを表し,個別物を指し示さない.そして数えるときには classifier 分類辞とともに数える.2本のハンマー,3本のペンというように.日本語もこの中に含まれるのだろうか.

刃物や衣類についてはその通りだが,ハンマーとかネコとか自動車になると形と境界を結構意識しているような気もするのだが,文法的には区別していないからそういうことなのかもしれない.



さて,日本語や中国語では区別がなく,そして英語においてもその気になれば何でも可算名詞にでも不可算名詞にでも制約を覆して扱えるというなら,そもそもなぜ英語のような言語は名詞を区別するのだろうか?
ピンカーもいろいろいっているが,要するにその方が数えたり測ったりする時に便利だからだという.そうすると日本語はこの点で不便だということになるのだろうか.話者としては等に不便はない気もするのだが,どうだろうか.


ピンカーは続いて,このような「もの」に関する言語は抽象的なことにも拡張されていると指摘している.
ここも日本語話者にはわかりにくいが,英語で様々な区別があることを示している.
opinions(可算)vs. advice(不可算)
stories vs fiction, facts vs knowledge, holes vs space, songs vs music, naps vs sleep, falsehoods vs bullshit

こう言うのを見ると区別がある方が不便な気もするのだが,ネイティブには特に煩わしいことはないのだろう.心理学者ポール・ブルームは英語話者は3歳児でも簡単にこの区別ができることを実験で示したそうだ.


可算不可算の話は,日本人から見るととても不思議な言語のオタク話で楽しいが,ちょっぴり実感がないのが悲しいところだ.


第4章 大気を切り裂く


(1)すりつぶし,パッケージ,分類整理:物質についての思考