読書中 「The Stuff of Thought」 第6章 その2

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


スティーブという名前で楽しい前振りがあったあと,ピンカーが取り扱うのは哲学的な問題だ.言葉,ものの名前の意味はどこにあるのか?
この問いに答えようとすることで名前の論理の理解の革命が生じたとピンカーは言っている.意味は現実世界にあるのか?それとも人々の頭の中にあるのか?


このような哲学的な問いは,言葉の定義遊びのような感じがして,私にはなかなかなじめない.要するに「意味」とは何かということによってどうとでも答えられるんじゃないのか?ピンカーはかまわず,「ネコ」という言葉はすべてのネコをさすが,誰もすべてのネコを知ることはできないとか,「ユニコーン」「イライザ・ドゥーリトル」「イースターバニー」などの実在しない言葉などを使って哲学的に謎をかけている.


しかししばらくしてピンカーは種を明かす.「意味」には2つ意味があるのだ.レファレンス(世界にある示されたもの)とセンス(定式のサマリー).そして言葉のセンスに一致する何らかの概念を頭に持っている程度によっては,その人はその言葉の意味を知っているということになる.


そして意味がどこにあるかという問いへの答えは単語のカテゴリーによって異なっているとピンカーは解説している,カテゴリーは5種類

  1. インデキシカル(指示語):センスは中身が無く状況依存している
  2. ノミナルカインド:私達が何らかのシステムでルールを作ることによりレファレンスができるような言葉.例えば「タッチダウン」とか「国会議員」とか「ドル」とかモノポリーにおける「GO」とかで,定義により示される.
  3. ナチュラルカインド(自然物):ネコ,水,金
  4. 人工物:鉛筆,オートミールサイクロトロン
  5. 固有名:アリストテレスポール・マッカートニー,シカゴ


ピンカーはまず名前(固有名)から議論を始める.


ちょっと考えると名前を知るにはレファレンスを知るだけでなくセンスも知らなければならないように思われる.見たりさわったりすることは必要ではない,なぜならアリストテレスのように会ったことがなくてもその意味がわかるからだ.そして私達は,実際には同じものが別の名前を持っていても,それを使いこなせる.クラーク・ケントとスーパーマンのように.


そうすると名前は頭の中では定義の記述になっているのだろうか?
そしてそうではないという大議論が延々と始まる.
しかし読んでいる方としては,素朴に考えて名前はある人やものに個別にタグをつけているだけで定義とは関係ないんじゃないかと思われるので,ここの議論はあまりぴんと来ない.


とりあえず輪郭を追ってみよう.
もし名前が頭の中で定義なら「ジョージ・ワシントン」という名前の意味は「アメリカ初代大統領」ということになる.
実際に定義のような名前がないわけではない(例:「もとプリンスとよばれたアーティスト The Artist Formerly Known as Prince」)しかし実際にはそうではないことは明白だ.グルーチョマルクスジョーク「ミリタリーインテリジェンスという言葉は矛盾だ」


ここで哲学者ソール・クリプケとヒラリー・パトナムが独立に考えついた奇妙な思考実験が20世紀哲学のもっとも驚くべきアイデアの1つであるとして,それをちょっとひねった思考実験が説明される.


題材はビートルズのメンバー,ポール・マッカートニー
もし名前の意味が定義なら次のようになる.
ポール・マッカートニー (1942- )
英国のミュージシャン.
ザ・ビートルズ(1960-1971)の中心メンバーで,ジョン・レノンとの作曲家コンビで「A Day in the Life」「Let It Be」などを手がけた.(同じ マッカートニー,サー・ジェイムズ・ポール・マッカートニー


ここでポールが実は1966年に死んでいて,5人目のビートルズメンバー,サトクリフと入れ替わったという都市伝説が真実ならどうなるかという思考実験がポイントになる.もし定義通りなら,入れ替わったサトクリフがポールと言うことになるが,しかしやっぱりこれは普通の人が持つ感じに会わない.作曲したのがサトクリフだったとしても.ポール・マッカートニーは1942年に洗礼を受けポールと名付けられた男なのだ.


クリプケはこの話をアリストテレスアインシュタインキケロなどを使って思考実験しているらしい.
つまりこれは第1章でふれたシェイクスピアの問題になる.そこでは仮にシェイクスピアという個人が実在しないとしても,個人の直感としては,シェイクスピアは一連の劇を書いた作家として言及され,その劇を書いた別の誰かのことにはならないことを見た.そしてID泥棒の話にも関連する.ID泥棒になりすましをされても,あなたの名前はあなたのことだ.


そしてこれを受けたクリプケの議論は「名前」は定義の記述ではなく,指示をするもの(どの可能世界においても同一人物を指し示す言葉)だということだ.どんな環境にあっても同じ対象を指して,会話が成り立つようにするもので,履歴ではないということだ.
つまりクリプケの言っていることは,名前の指示は両親が赤ん坊を指したとき,あるいは名前が定着したときに始まりその後一生,場合によっては死後も続くものであり,名前は指示語に近いということだ.


読んでいて,名前の意味が定義でないのはあまりにも当たり前で,何が20世紀哲学のもっとも驚くべきアイデアなのか考え込まざるを得ない.これは私があまりにも哲学音痴だからなのだろうか.




第6章 名前には何があるのか


(1)世界の中なのか,頭の中なのか?