読書中 「The Stuff of Thought」 第6章 その3

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


さて固有名詞の意味は「定義」ではなく,指示するものだという結論のあと,では普通名詞はどうなのかの議論にはいる.


確かに普通名詞になると単に指示しているということよりもそのカテゴリー性が問題になるかもしれない.でもやはりある実体に対してタグをつけているだけではと思われるがどうだろうか.


ピンカーは自然物から議論を始める.
金とかクジラとか言う言葉の意味は定義ではあり得ない.一般の人はその正確な定義を知らないし,科学的な定義が変わってもその指し示すものが変わるわけではないからだ.結局自然物の言葉の意味も定義的記述ではなく現実世界のものを指し示していると言うことになる.
パトナムの議論も紹介されていて,自分はニレとブナの違いを知らないが,それでもこの2語は自分にとって同義語ではない.それは知識のある人には違いがわかるからだと言っている.


言葉の意味が定義ではないのかと考える人は多いらしくてここはかなり丁寧に議論が進む.面白い議論はネコについて

「ネコ」は動物だという知識・定義がなければ使えないだろう.しかし「ネコ」は実は別世界の宇宙人が作った機械だということがわかったとしたらどうだろうか.「ネコ」はもういなくなるのだろうか.実は「ネコ」は動物ではないということになるのか.別宇宙にニャーと鳴く動物がいたらそれが「ネコ」になるのか.もしあなたがこの質問に no, yes, no と答えるならあなたはパットナムに賛成していることになる.

そして同じ議論は人工物にも使える.言葉の意味が定義だと考える人は「鉛筆は書くための道具」だというかもしれない.しかし実はそれが生物だとわかってもやはり鉛筆なのだ.


ここまでのピンカーの議論は普通名詞の意味が定義ではないことを執拗に示している.そもそもそう考える人が多いから丁寧に反駁しているということだろうか.


では普通名詞の意味は指示するだけなのか.
ピンカーはこういう.「もちろん単語の意味の一部は人々の頭にある.ある単語を知っている人と知らない人には違いがある.」
だからパトナムの議論は,言葉の意味が定義ではないことを示しているが,だからといって普通名詞の意味は単に指し示しているだけだというわけでもないということになる.
私の直感からいうと普通名詞の意味はカテゴリーを切ったものにタグをつけているということなのだが,そのカテゴリーについては何らかの意味が頭の中にあるということらしい.


ピンカーによると今日の哲学者はパイを別に切り分け,言葉の「意味」の意味には2義あるとしていることが多い.
「狭い意味」は頭の中にあり,定義,概念構造,ステレオタイプだ.「広い意味」はこれに加えて,世界にあるものを指し示すもので,それは話し手の頭の外にあるものに依存している.それは人々が言葉を習得するときに学習するもので,最初に言葉を作ったときにもそうであるはずだ.


ピンカーは,ではなぜ通常この違いを意識しないで言語を使えるのだろうと問いかける.そしてそれは嫌らしい哲学思考実験以外では通常それは同じものを指しているからだと答えている.現実世界でうまくやるにはそれなりにうまく機能すればよいので哲学者の極端な例は気にしなくてもよいというのがピンカーの主張だ.私達の心はうまく世界と一致しているのだ.
ピンカーはこう言っている.

しかしほとんどの場合一致している.世界には哲学者が夢見るより小さな可能性しかないのだ.現実世界は規則性を持ち,私達の言語習得能力はそれを勘定に入れている.宇宙のどこにもちょうど水のようで水ではないものなどないと考える方が,ネコと瓜二つの「ダレク」はないと考える方が,鉛筆のような生物はいないと考える方が,知らずに父を殺して母と結婚するということはありそうもないと考える方が,ビートルズに偽の承継者がいないと考える方が,分のいい賭けなのだ.


さらに,言語がうまく機能するには,言葉と現実世界の連結に深い確信が必要だ.そして過去からの話し手と聞き手にこの確信が共有されていることが必要だ.そして実際にそうなっている.ピンカーはあなたがアリストテレスというたびに,その言葉は古代ギリシアからつながっていると考えるのはちょっとしたスリルがあるといっている.


第6章 名前には何があるのか


(1)世界の中なのか,頭の中なのか?