読書中 「The Stuff of Thought」 第7章 その4

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


さてここまで冒涜語を見てきて,その共通の要素は何だろうか.ピンカーはその強いネガティブな感情だと指摘する.この強い感情生起のために私達はまるで椅子に縛られたように衝撃に対して弱くなっているのだそうだ.そして冒涜を理解するためには一体どんな考えが人を逆上させるのか,そしてある人はなぜそういう考えを人に与えたいと思う可能性があるのか調べなければならないと本節「冒涜の意味論」を始める.


まずピンカーは宗教との関連をあげる

英語や他の多くの言語の冒涜の歴史的ルーツは宗教だ.十戒の3つめや,多くのののしり言葉(hell, damn, God, Jesus Christ),さらに冒涜を表す言葉自体(profanity: 神聖でないもの,blasphemy: 邪悪なスピーチで一般には神聖に対する不敬を言う,swear, curse, oaths: もともとは神に関する表現)にこれを見ることができる.


ここは現代日本ではあまり理解できないところだ.そもそも神の名や仏の名をあげること自体タブーではないし「ナンマンダブ」というのは祈りの言葉であってののしり語ではない.
タブーという点に関しては恐らく皇室に対する不敬な言葉がもっとも宗教的なタブー現象に近いものだろう.しかしこれはタブーが強すぎてののしり語として使われることはない(ように思う).


もっともピンカーによると米国でも宗教的な冒涜語はどんどんその力を失っているようだ.

風と共に去りぬで「Frankly, my dear, I don't give a damn.」という台詞があるが,これで人を逆上させられる時代は過ぎ去ってしまった.現代の映画でその人が逆上したとしたら,それはその人が古式ゆかしい人だという表現になってしまう.

ピンカーはこれを西洋文明の世俗化の現れだという.宗教の粗野な力を理解するためには神と地獄が現実的な存在感を持っていた頃に戻らなければならない.


ピンカーはしかし冒涜語の起源を見る上で,そのような時代には何が生じていたかが重要なのだといい,それを考察している.

ある人の約束を宣誓や誓いが効力を持たせるようにする状況には面白い問題がある.
あなたが約束をすることが必要だとしよう.借金をしたいので,金を返す約束が必要だ.約束を破る方が得なのになぜあなたは約束を守ると信じてもらうことができるのだろう.それは破れば罰されるという状況があればいいのだ.その場合は相手はあなたの利己心に期待することができる.これは意図的にハンディキャップを作ることによって達成できる.

現代では法的な契約をすることによってこの状況を作り出す.しかし契約を守らせる商業的,法的な仕組みができる前は自分でハンディキャップを作るしかなかった.子供は今でも,「嘘をついたら死んでもいい」というようなことを言う.大人はこれについて神を持ち出したのだ.

そしてこれがうまく働くには(神が信じられていた時代にあっても)誰かが誓いを破っても罰されるという状況が頻発しては都合が悪い.地上における神の代理人は,神の実在についての信念を保存しようとし,くだらないことに神を持ち出すことを好まなかった.だからむやみに神の名を呼ぶことは禁じられたのだというのがピンカーの説明だ.
するとこれは宗教側の戦略から発していることになる.ピンカーはこれが意図的な戦略なのか,ミーム淘汰的にそういう宗教が生き残った結果が見えているのかについてはコメントしていない.


また一般の人は,神を曖昧な議論の中に登場させることによって,自分の約束を可罰化する戦略をとっただろうという.
それは自分の信頼性を神の属するもの(神が興味を持っているであろう神の名前,シンボル,著作物,身体部位など)にリンクさせる方法だ.これにより神に誓いを立てたり(swear by God),聖書にかけて誓ったり(swear on the Bible)できるのだ.今日でもアメリカの法廷では,(まるで法廷で見過ごされる偽証でも神が見過ごさないことを期待しているかのように)聖書にかけて誓うことが求められている.


やはりこのあたりは現代日本では理解がしにくい.「神かけて」あるいは「仏にかけて」誓うというのはあまりないように思う.自分の生命.良心,あるいは所属する共同体の名誉・名声などをかけるのが通常だろう.


ピンカーは,さらに一段進んで周りの人も自分がハンディキャップを作る戦略を使用できる状況を維持したいのでこの(むやみに神の名を使わないという)戦略を支持するだろうと指摘している.人があまりに簡単に神聖なものにかけて誓うなら,その神聖さは意味論的なインフレによって脅威を受けるということだ.


またヒトは不快なことを考えることをコストとして感じるようにできている.まったく迷信など持たない人でも,親であれば,「我が子にかけて」何かを軽々しく誓ったりしないだろう.何かの利益のために自分の子供を殺すという考えは,単に不快なだけでなく,そもそもほんとうの親であれば考えるべきではないことで,すべてのニューロンはそうしないようにできているはずだ.


つまりピンカーはヒトの心理傾向が約束を守るコミットメント問題と連結して,タブー心理の基礎ができていると主張している.これはなかなか興味深い考察のように思う.

何かを自由に考えるということは小さなことではない.そして,そのような自分自身への脅迫が,約束の信頼性を高めるのだ.
親しい人や同盟相手を裏切るということについて文字通り考えるべきでないということがタブー一般の心理学だ.そしてそれが何か神聖なもの(宗教的な何かや自分の子供の命など)にかけて誓うときの心理にあるのだ.
そして意味解析がオートマチックであり,このような誓いを有効にする神聖な言葉は,注意を引き,相手に心理的ショックを与えるため,冒涜語になるのだ.

だから英語では誓うと冒涜が同じswearという語で表されるのだと説明している.


そしてピンカーはこれには「呪い」という現象が関係していると指摘し,damn というののしり言葉をわかりやすく解説している.

宗教はこれとは別の曖昧なタブー言語の動詞にも登場する.「curse: 呪う」だ.呪いの中では誰かの不運や侮辱が生じるように願うのだが,キリスト教ではこのターゲットに特に不快な考えをもって痛烈にののしるものを用意している.地獄における永遠の苦しみの可能性だ.

今日,Go to Hell! や Damn you! などはわりと緩い形容だが,かつて人々が真剣に地獄の苦しみを恐れていた時代には強い言葉だった.今日かつてのdamn(もともと神が人に永遠の断罪をすること)に一番近いのは,誰かが自分の目をのぞき込んでこういう感じだろう「私はおまえが税金をごまかしているのを見つかって懲役20年を喰らうことを願う.その牢屋は蒸し暑くゴキブリがはい,排泄物の臭いに満ちているだろう.そしておまえが3人の牢仲間に毎晩いじめられることを願う.」

呪いがいかに残酷なものかを理解すれば,今日短気な人がまき散らす言葉の語彙が(排泄や性に関することに)限られていることは幸運だ.


DAMNというのはこういう背景があるということだ.なかなかこのあたりは普通の英語学習では教わらないが,よく知っておいた方がよい気もする.もっともピンカーがわざわざこう解説しているぐらいだから普通の英語会話者においてもかなり希薄化しているのかもしれないが.


第7章 テレビで言っちゃいけない7つの言葉


(3)冒涜の意味論: 神,病気,汚物,性にかかる思考