読書中 「The Stuff of Thought」 第8章 その9

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


先週近所の落雷でモデムとルーターとプリンターが昇天してしまい,しばらく自宅からアクセスできなくなってしまった.ブログの更新も少し間が空いてしまった.モデムを交換し,OAタップも落雷サージ付のものに取り替えたが,ルーターとプリンターはこれからだ.ちょっとショックだったのでつい愚痴を.(もっともパソコンが無事だったのだけでもよしとすべきだろうが)



さて気を取り直して


高級レストランでフロアマネージャーに現金をつかませる賄賂作戦.しかしなぜ彼を買収することはそんなに怖いのか?最悪の結果でも「ノー」と言われるだけだ.
ピンカーはこの現金供与はほかの普通のチップとはまったく異なる感覚だ,いわば約因がある受け払いという一線を越えていると説明している.日本には約因という概念はないが,普通の感覚でいうと「払うべき理由」がないものだということだろう.*1


ピンカーはこの謎を説明するために,人類学者アラン・フィスケの考え方を紹介する.それは「共有,分けあうこと:comuunal sharing」「権威のランク」「平等,平等マッチング:equality matching」の3つの概念を使って,私達が互いに持つ関係,それに対する思考,感情,慣習に関する見方を示す理論だ.この3つ(団結,力,交換)は私達の進化的過去に根ざしており,私達は対人関係を本能的にこのどれかに当てはめて考える.しかし,ある言語を含むコミュニケーションチャネルを使うことにより,私達はある関係の心理セットを別の関係に使うことができる.このような交渉が人類学者に記録された多くの社会慣習を作り上げ,間接スピーチは受容可能な偽善の動機になっているのだ.ピンカーは丁寧に1つづつ説明を始める.


最初は「共有,分けあうこと:comuunal sharing」
その背後の理屈は「私のものはあなたのもの,あなたのものは私のもの」だ.これは礼儀正しさ理論では社会的距離であり,正の体面でガードされる.進化心理学ではおなじみの概念だろう.これは血縁者,配偶者,共通の利害を持つ友人などとの間に生じる感覚ということになる.このアイデアは心理の中に組み込まれているとして,ピンカーは言語学者らしくメタファーを提示している.
「親密さは身体的な近さだ」「親密さは連結している」「親密さは同じ肉体からできている」


この関係は完璧になることはなく,共有地の悲劇でわかるように強欲に弱い.だからヒトのグループやリーダーはこれを強くする方策を探ってきた.
そのテクニックの1つは血縁メタファーだ.「兄弟よ,10セント貸してくれないか」.ピンカーはここまで来て,私達は,共感的礼儀正しさは体面を保つために協同作業(知らない人の間に共有感覚を導いたり,それらを友人や同盟者の間で使うこと)ではないことを理解できるといっている.要するにグループリーダーによるグループメンバーの操作という状況だということだろう.
もうひとつのテクニックは人々は同じ肉体からできており,大きな超生命体の一部だというフォルク生物学的直感を使うことだ.肉を分け合いいっしょに食べることは世界中でみられる絆の儀式だ.これには食事のタブーや服装や刺青なども含まれる.またグループの人々は同じ身体の動きを行う.ダンス,行進,お辞儀,起居,エクササイズ.外から見れば,1つの超生命体のようだ.それは「共通の運命」という感覚から来るものだ.同じように動くものはつながっているように感じるのだ.これも操作の文脈だ.


ピンカーははっきり説明してないが,これは単にそのときのグループリーダーの意図的な操作ではなく,進化を通じてそのような行動が有利になってきたことからヒトの心理に深く組み込まれているという趣旨だろう.これによるとダンスはより強い団結・協力関係を築く機能があるということになる.ここはD. S. ウィルソンの主張に似ていて面白いところだ.


そしてこれらは神話やイデオロギーによって強化される.人々は自分たちが,共通父祖や最初のカップルの子孫だ,始原の地に結びついている,同じ創造で作られた,同じシンボル的動物に関連しているなどと教えられる.このあたりのピンカーの説明もミームや文化進化につながるつっこみどころの多い部分だが,ここではこれ以上深く入らずにさらっと流している.


ピンカーはここで,社会科学や政治学の理論家が社会の基礎としているにもかかわらず,実際の社会の中に見つからないのは『社会契約』のたぐいだという.友達,家族,カップル,氏族は座って互いの権利と義務を明確にしたりしない.もし言語を使うとすれば,それはその信条を一斉に唱えたり繰り返したりする.「愛してる」「私は忠誠の義務を誓う」「私は信仰に生きる」など.


ピンカーの主張は,人々が権利と義務を交渉し始めると,共有の一体感が無くなるということだ.それがよくわかる例として,ピンカーは1996年に提案されたデートレイプポリシーをあげている.それは学生に対してすべてのエスカレーションに事前に口頭の同意を求めていたらしい.それは広くあざけりの対象となったということだ.いかにもばかばかしいが,これ以外の項目もポリシーがフェミニスト系の思想によって定められていてまったく的外れになっていたということなのだろうか.ピンカーは明示的には何も言っていないが,いかにもそんな感じだ.日本にもこの様なものがあるのだろうか.


ピンカーはさらに交渉だけでなく,そういう権利や義務について考えること自体人々は好まないのだという.自分の結婚や親としての行為や友情やグループへの忠誠について常に考えて反芻している人は,悪人,調子のいいときだけの友人,信頼できない人間,「わかってないやつ」だと思われる.ここにもタブーの心理学があるのだ.
ここでは結婚前に離婚の時の財産分与を決めないのはなぜかという問題で説明している.

合理的に考えればすべての婚約したカップルは離婚したときの財産分割について契約をしてから結婚すべきだ.半分のカップルは離婚するのだから.しかしほとんどのカップルはそれを拒否するし,それは合理的でないわけではない.そのような交渉をすること自体が,よりそれを必要とする事態,つまり離婚を招いてしまうのだ.それはもし結婚が正しい「共有」感情の上に乗っていれば考えるはずのないことを考えざるを得なくなるからだ.


要するに人々が団結するには,自分たちは血縁で同じ有機体の一部だと強調することが良い方法であり,小難しく権利や義務を気にしてはいけないということだ.ある社会関係にはそれにふさわしい態度があってそれを外れるといろいろな問題があるということだろう.



第8章 人が行うゲーム


(4)分配,地位,取引:関係に関しての思考

*1:約因 consideration とは英米法の法原則に絡むもので,乱暴にいうと契約者双方に名目的なものでもよいので何らかの利益の交換があるということを指す.これがないと契約に法的な拘束力が認められない場合がある.日本法はローマ法の流れをくむ大陸法系なのでこのような法原則はない