「ダーウィンのジレンマを解く」

ダーウィンのジレンマを解く―新規性の進化発生理論

ダーウィンのジレンマを解く―新規性の進化発生理論


自然淘汰に必要な変異がどのように生まれるのかについて,遺伝子発現の仕組みから詳しく語ってくれる一冊.著者は細胞運動やその形態の専門家カーシュナーと酵素の調節機構から発生生物学に転じたゲルハルトの共著となっている.二人ともアメリカで活躍している学者のようだが,名前からしてドイツ風であり,発生に深く関わる内容,そしてみすず書房ということで,予想に違わず,ドイツ風観念論の色の濃い,難解な書物に仕上がっている.


さて冒頭に本書が解決しようとしている問題意識が書かれている.曰く,ダーウィニズムには表現型変異の出現(本書ではこれを「新規性」の議論と呼んでいる)の説明に穴がある.一般の生物学者は遺伝的変異はランダムであり,表現型の変異もランダム,そしてそこから淘汰が生じると考えて満足しているが,表現型の変異はランダムではない.それを「促進的変異理論」を提唱して説明しようというもの.
私にとっては,本書はこの大上段の構え振りに相当違和感がある.そもそも一般の進化生物学者は,現代の進化理論に穴があるとは思っていないし,表現型の変異が遺伝的な突然変異のとおりランダムに生じるとも思っていないだろう.そこには遺伝子発現や発生のブラックボックスがあって,今後詳細がわかってくるだろうと考えているだけだ.だから邦題の「ダーウィンのジレンマを解く」というのもいただけないし(ちなみに原題は「The Plausibility of Life: Resolving Darwin's Dilemma」),本書のスタンスにはちょっとついていけないところがあるのだ.もっとも「そのブラックボックスがだんだんわかってきました」という話として読めば結構面白い部分もある.


さて本書の議論に戻ると,ダーウィン自身もこの変異の出現には悩んでいて,一時ラマルク説も受け入れたりしていたが,結局進化の現代的総合の結果,適応のみが重視されるようになり,その部分は無視されるようになったとして,ベイトソン,メンデルの再発見,ド=フリースモーガンケアンズらの議論をおさらいしている.
本書はしかしその部分は説明されるべき問題であり,「促進的変異理論」として提示したいという.このエッセンスをまとめると以下のようになる.

  1. 表現型の変異はランダムではない.
  2. 生物の遺伝子発現過程には,強い拘束がかかって長期間保存されるコアプロセスと,その組み合わせ,そしてコアプロセスに対する複雑な調節からなっている.
  3. コアプロセスは,まれに新しいものが出現し大きな変化を生むが,通常は長期間事実上不変である.
  4. コアプロセス同士の連携は,スイッチのオンオフによる弱い連携になっていること,フィードバックのかかる探索的なプロセス,区画化してそれが入れ子になっていく発生プロセスなどにより,変異に対してきわめてロバストになっている.
  5. 生物個体が環境に順応する体細胞適応という現象が進化による淘汰改変に絡む(発生におけるボールドウィン効果
  6. これらにより遺伝子のランダムな突然変異に対して,表現型変異は,多くの形質の同時発現が必要という問題を抑え,致死率が低く,より環境変化に対して進化しやすい変異を作り出す方向に偏向する.だからダーウィン理論の持つ新規性の問題を補完できるのだ.

ボールドウィン効果についてはあとで触れるようにちょっと難しい微妙な議論だが,議論の本筋はもっともなものだ.そして普通の進化生物学者にとってほぼ想定内だろう.


本書はこの個別の問題について詳しく取り上げていく.
コアプロセスとは,例えば,原核生物内における化学プロセス,真核生物の細胞の構成と調節,多細胞生物の細胞の接着,情報伝達,ボディプラン,肢などを指している.歴史的に見て時に爆発的に進化が進み,それにより得られたものがその後保存されているというのは,多くの例を見ていけばそのような現象が生じていることが納得できる.
そしてそのようなコアプロセスの共通性,保存性にもかかわらずに生物が多様なのは,調節の部分に変異が生じるからだというのもよくわかる.コアプロセスが調節スイッチのオンとオフによる複雑でロバストなネットワークになっていることや,「探索プロセス」と呼ぶフィードバックの仕組みも詳細が解説されていて興味深い.発生についてはさすがに詳しくて,区画化がまず生じてその中で遺伝子発現のセットが変わること,それが入れ子状に繰り返されて発生が進むことなどの面白い知見が紹介されている.
ただ本書の主張とは違って,これはまさに普通の進化生物学者の予想通りというところだろうと思われる.


微妙な議論は発生におけるボールドウィン効果の主張だ.体細胞適応がいろいろな環境下で生じた方が適応的なのは明らかだが,そのような獲得的な反応が生じる能力が土台になり,それが頻発する環境下ではその反応がより安定化してさらに増強されるように淘汰されるという主張だ.本書ではなかなか難解に語られているが,要するに促進的変異理論のもとではこのような発生におけるボールドウィン効果がより生じるし,より理解されやすくなるだろうということのようだ.
私の理解ではボールドウィン効果というのは,学習で獲得されるような能力が,そのような学習を行う個体が多い環境下では,生得的に獲得されていた方がより速く低コストで獲得できるのであれば有利であるという淘汰が働いて,生得的に獲得されるようになるという文脈で提唱されているものだ.(そもそもボールドウィンは心理学者であった)どうも,これに似ているということで発生生物学でもボールドウィン効果という名前で議論されているらしい.
確かに発生においてもそのようなことが生じないとは言えないだろう.しかしそれがどれだけ重要かというのは本書にある議論だけではよくわからなかった.


本書は現在遺伝子の知見が急速に増加していることからこの「促進的変異理論」がテストできるようになるだろうと主張している.例えばフィンチのクチバシの変異とその遺伝子の発現をクチバシに特徴のある他の鳥についても調べてみれば面白いだろうと提案している.確かにいろいろ調べてみると面白いだろう.そして進化生物学者が多分そうだろうと考えていたような事実がいろいろ明らかになるのだろうと思われる.

またコアプロセスの起源についてはわからないことが多いとしながら,若干の推測を述べている.例えば,原核生物から真核生物,多細胞生物の起源あたりのコアプロセスの変換は,非常に多くのプロセスがいっせいにかなり大きく変更されていてまれな事柄が生じたことがわかっている.本書の推測では,まず新規プロセスができあがり,その後ロバストさが加わり,さらに調節のネットワークにより表現型変異がより可変になるようになったのだろうと示唆している.


最後に本書はこのような促進的変異理論の他分野への応用として,工学,人間社会の制度設計分野において,モジュール性,ロバストさ,拡張可能な相互作用などについての示唆を与えるだろうと示唆し,また新規性についての指摘をやめない創造論者との論争にも一助になるのではないかと希望を述べている.


最初にも述べたが,本書の大上段の振りかぶりについては違和感がある.個別の議論のスタイルにおいても,ダーウィン理論の穴として「新規性」が説明できないと主張しているが,仮に表現型変異がランダムだったとしてどうして量的にそれで足りないと考えるのか(個体数が多く,長時間かければ十分かもしれないではないか)の根拠が全くないところも残念なところだ.冗長で難解な表現も多く,観念論的な議論は読み進めるにはつらいものがある.そのあたりは軽く読み飛ばして,遺伝子発現や発生の詳細を楽しむというスタンスで取り組むとよいのではないだろうか.



関連書籍



The Plausibility of Life: Resolving Darwin’s Dilemma

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原書 表紙は訳書とちょっと違うようだ.なぜ変えたのだろう.