「Missing the Revolution」 第9章 進化,エージェンシー,社会学 その4


Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists

Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists


ベルンド・バルダスによる社会学と進化理論に関する第9章.ここまでに20世紀前半までの社会学,生物学の行き詰まりまで解説された.


ここからバルダスは現在の状況に飛んで批判モードに突入する.ここもちょっと違和感がある.1960年代以降のハミルトン革命によって,20世紀前半に比べて,進化についての理解は大きく進んでいるにもかかわらずに,あたかも同じ知的停滞にあるような議論の進め方はいかがなものかという感じだ.


バルダスは,ヒトの心を領域特殊的なモジュールの集合体と考えるのすら,このような自由意思,エージェンシー性を否定する考え方の現れであり,好ましくないと考えているようだ.デネットについても,その「意識やエージェンシーは存在しない.私達は何故ヒトがそれが存在すると考えるのかを説明できるだけだ」という考え方について問題だと考えているようだ.さらにバルダスは一般的な進化過程を線形の相加的なモデルを立てて分析する手法についても批判している.
このあたりは違和感というよりも誤解といった方がよいだろう.領域特殊的なモジュールの集合体である脳が「自由意思」のような判断ができるとしても何ら問題ないし,最初のモデル作りの際に分析しやすい線形で相加的なモデルを立てるのはある意味当たり前だろう.それで説明できないデータがあれば順番に複雑なモデルを立てれば良いだけだ.
このあたりは英国において,社会生物学論争の文脈で「何故還元的なモデルを使うのか,複雑な現実とは異なるではないか」と批判されて,メイナード=スミスが「私は戦時中にこのような近似モデルで飛行機にかかる設計をたくさん行いましたが,それらは今も飛んでいますよ」と皮肉混じりに答えたというエピソードを思い出す.一部の社会学者にはこのような工学的実務的考え方が理解できないのかもしれない.


どうもバルダスは,非適応形質は実は何らかの適応の社会的現れだとか,ランナウェイプロセスだとか,もともと適応だったのが中立あるいは非適応になってしまったとかの説明が気に入らないらしい.これは「何でも適応として説明するのは問題だ」というグールドの批判にちょっと似ている.たとえば,だましとその検知だとか,脳と文化だとか,部族戦争のための知性だとか,あるいはランナウェイの性淘汰過程で脳が増大したなどという説明だ.
そして社会学者としてのバルダスは,特にこれまでの論者の「文化」の説明について不満があるということらしい.結局,文化を,適応でなければ副産物として扱うという態度はだめだ,もっと変化,柔軟性,創造性を評価しなくてはならないという主張みたいだ.


バルダスはこのような視点に立って,これまでの進化的な視点からの文化の研究をなで切りにしている.

キャンベルやリチャーソンやボイドやミラーなど文化進化の自律性を強調しようとしている論者も,それを遺伝的な考えるパラダイムにとらわれてうまくいっていない.キャンベルの内部的気まぐれな選択者は結局過去の自然淘汰の適応を現しているのだ.ミラーは創造性を性淘汰の産物として説明しようとする.ボイドとリチャーソンは二元遺伝モデルで,文化はヒトの遺伝子によって,と同時に文化自身の淘汰圧によって形作られると議論する.しかしこれらの文化「決定」は外部の文化からその文化の生態ニッチを守るものや,単純な心理学的プロセスによって得られるものだ.ここではヒトの選択は問題を予見したものによる単に効率的至近的代理選択に過ぎないとして扱われている.これらは自然淘汰の代理という位置づけであり自然淘汰がうまく働かないときに出てくるだけなのだ.
彼等は文化の多様性の謎を解く鍵として適応を用いるために,進化におけるエージェンシーの問題を理解できないのだ.

ちょっと観念的な議論であまり説得力はないように思う.具体例で何が説明できないのかを示して欲しいところだ.



この節の最後には,現在の進化的視点からの文化研究者たちの位置取りの鳥瞰図もある.

今日ヒトの文化の進化研究は分割されたフィールドになっている.
多くの生物学者はヒトの文化の繁殖成功からの自律性をある程度は認めている.実際には厳格に適応で説明しようとするもの,ユニバーサルなコアだけそうするもの,いろいろな拡張で説明しようとするものに分かれる.
また少なくない学者が,文化の一部はまったく異なるラマルク的な過程(内部的な欲望や報酬によって「満足」を最大化しようとするよくわかっていない過程)によると結論づけている.
ブラックモアのようなミーム学派はミーム進化がヒトにおいて生じていると議論している.
グールドも文化進化のラマルク的な側面を認めている.
発明の高いレート,冗長性のある多様性,ヒトのエージェンシー性の役割は説明されないままなのだ.

普通の感覚では,一番最初の「ヒトの文化の繁殖成功からの自律性をある程度は認めている」立場と,それほど重要ではないかもしれないがミーム進化の可能性もあると認めている立場のあわせたものが,穏当な立場ということになるだろう.そしてそれで多様性,変化はかなり説明できているのではないかと思う.またエージェンシー性の役割というのは依然としてちょっとよくわからないというところだろう.