「Kluge」

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind


本書はゲアリー・マーカスによるヒトの心についての本である.これまで認知科学社会心理学,そして行動経済学による様々なリサーチによりヒトの心には無意識のうちに膨大な計算を行う目的特化型のモジュールがあることがわかってきている.進化心理学ではそれらのモジュールについてEEAにおけるなんらかの適応問題を解決するものだと仮定していろいろな議論を行ってきている.マーカスはこのような姿勢はヒトの心についての適応の完全性を仮定しすぎていておかしいと批判する.適応は完全ではないことがありうる.適応地形の極大点にトラップされ,一から設計したら決してそうはならないような妥協の産物(これを本書ではクリュージと表現している)になることがある.ヒトの心は,そのようなトラップの結果,様々なモジュール(本書ではこれを直感システムと呼んでいる)や一般的な知能(同じく熟考システム),さらにそれ以外のものが,不完全に統合されているクリュージだと考えるべきだというのだ.


マーカスはこのようなラインに沿って,記憶,信念,選択,言語,幸福感,精神障害(に対する脆弱性)の問題を取り上げる.本書で取り上げられているいろいろな現象でマーカスのいうクリュージ現象として理解可能なのは,様々なモジュールと一般知能がうまく統合されていないという現象だ.このためにヒトの心は「理性」的に考えれば合理的でない特質を示すことがままあるのだ.そのもっともわかりやすい例は時間に関する双曲割引の問題だ.確かにヒトの心がうまく統合されていればあとになって後悔するような選択を行うことはないはずだと思わせる.そしていったんできあがったモジュールがほかのモジュールや一般知能と統合するのは適応地形の極大点にトラップされて難しいことなのかもしれない.


しかしもっと深く読んでいくと,私にとっては本書の記述は非常に不満の残るレベルに止まっている.
まず「誰にとって」不合理なのかについての基準が曖昧だ.マーカスは現代におけるヒトの社会生活にとって不合理な現象をいろいろ取り上げているが,それは「進化」の視点から見た遺伝子の頻度増加にとっても不合理なのかどうかははっきり記述されていない.例えば「幸福感」が長続きしないことを不合理だとしているが,それはその人個人にとっては不都合だろうが,遺伝子的な視点から考えれば,常により上を目指す挑戦を続けるためには合理的なのかもしれない.進化的な議論をするためにはここははずせないところだろう.
2番目に,現代社会という環境下において不合理だとしても,それはEEAにおいてもクリュージの結果として不合理なのか,EEAにおいては合理的だったのに現代社会に対して不合理となり,まだ適応していないのか(よくある進化心理学のスタンス)の議論の区別がされていない.例えば,メモリシステムは文脈依存型であってポスタルメモリシステムがないことをクリュージだとしているが,EEAにおいてはそれで十分だったのかもしれない.
また淘汰圧がどのようなものだったかを飛ばしている議論もある.言語がクリュージであることを情報伝達において合理性がないことから説明しようとしているが,そもそも言語が情報伝達の正確性を淘汰圧として適応したものかどうかを詰めてからでなければ説得性がないと思われる.


結局本書は,あまり進化的な議論に関心のないごく一般的な人を対象にした楽しい読み物として企画執筆されたものなのだろう.だから本書を通じての説明スタンスは,現代社会に生きる人が「何故物事がこうもうまくいかないのか」と嘆いているとすれば,そこに「難しい話はすっ飛ばしていうと,実はこういう話なんですよ」とささやくというものになっている.そこを収めてしまえば,本書は大変ユーモアたっぷりに書かれていて,読んでいて大変楽しい.中には説得的な説明もあるし,そうでないところも「こういう対立仮説ももう少し深く考えましょう」という読み方もできる.「ヒトの認知が合理的でないこと」,「進化から考えるとどういう可能性があるか」などの問題をあまり考えたことのない人へのスターターとしての軽い本としてはなかなかいい読み物なのだろう.早いタイミングで邦訳「脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ」も出ているので,そういう方々には興味深い本になるものと思われる.



関連書籍


訳書

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

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ゲアリーマーカスの前著

心を生みだす遺伝子

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私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20081203


同原書

The Birth of the Mind: How a Tiny Number of Genes Creates The Complexities of Human Thought

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