「進化倫理学入門」

進化倫理学入門 (光文社新書)

進化倫理学入門 (光文社新書)


自然主義の人権論」の著者,内藤淳による一般向けの本である.
善悪(道徳)の本質は何か,という問題は「メタ倫理学」と呼ばれる領域で取り上げられる問題であるそうだ.この中には客観的基準があるという考え方と,善悪はあくまで主観的な問題だという考え方がある.著者は進化的な考え方(人間行動進化学という言い方をしている)を元に「メタ倫理学自然主義」の立場から考察しようという.さらに著者の主張を私なりにまとめると,「善悪はヒトの情感によって決まるのだが,何故そう感じるかには進化的な基盤があり,それは利害が基本になっている」ということになる.


本書は最初に進化的な考え方を簡単に説明する.進化とははなにか,種の保存の議論は誤りであることなどを説いた後に,しかし弱肉強食や競争擁護につながるわけではないと断っている.このあたりは(社会ダーウィニズムのケースもあり)価値を論じる倫理学としては誤解されやすいところだろう.
続いて脳の進化と地位や評判,名誉,情報などの問題,さらに理性的判断といえども,最終的にどちらを選択するかについては快不快の情動によることなどを説明する,そしてそのような仕組みは,そういう選択を行ってきた個体が有利であったから進化したのだと説明する.このあたりは進化心理学的知見をきちんと押さえた上で,社会科学,人文科学系的言説に慣れている読者に向けて誤解しやすいところを丁寧に説明している.


ここで互恵的利他行動,間接互恵的利他行動の議論を説明し,相手の信頼を得たり,よい評判を得ることは,仮に短期的なコストがあっても長期的に利益になり得ること,さらによい評判をうまく広告するには,それが広告であることを無意識化するのがよい方法である可能性があることを示す.この「やさしい心で得をする」というのが道徳律の基本だというのが著者の主張だ.著者によれば「すべし」というのは何らかの目的を達成する方法であることを意味し,その目的は利益を得ることであるということになる.ちょっと面白いのは,この考え方によればついていい嘘といけない嘘が説明できるという記述だ.自分の目先の利益のための嘘は評判を結局落とすことになるので禁止され,相手のための嘘はそうではないので許容されるということになる.また「では見つからないとき(評判に影響を与えないとき)には目先の利益優先でいいのではないか」という疑問について,そのような戦略は結局失敗しやすいのだと答えている.さらに「利益になることをしているなら,なぜそもそも道徳律などというものを意識するようになっているのか,すべて無意識に行えるようになるはずではないか」という疑問については,「目先の利益にとらわれることを防ぐための仕組みだ」とのみ解答している.これについてはそのような仕組み自体なぜ無意識にできるように進化しなかったのかというつっこみ(クリュージの議論)もあり得るところだろう.


本書のここまでのところは道徳の進化的基盤の入り口の部分であり特に問題のないところだ.
しかしこのあとの本書の説明は,考察が浅く肯定できない部分が多くなってくる.


まず社会的規範としての道徳律についてだ.著者はこのような個人的な行為規範がそのまま社会規範になっていると考えているようだ.しかしそもそも社会における他者操作としての道徳律成立の可能性(他者には本来最適な利他性より高い利他性を誘導する)や,ミーム複合体としての道徳律の可能性(宗教的な基盤があればその可能性がある)をきちんと考慮していないようで考察の浅さを感じさせる.


また本書は最後の第5章で何がよい社会なのかという問題を取り上げる.ここまでは道徳律の基盤は何かという「事実」の問題だった.しかしここからは何がよい社会かという「価値」の問題に入っていく.


ここで著者はここまでの思想史を簡単に概説する.

  1. 何らかの「価値」を正面から認めるもの.自由や平等などをまず認めようというものだ.著者によるとこの考え方には価値の衝突の問題,さらにそもそもなぜ特定のことに価値があるのかの根拠がないという問題があることになる.
  2. 個人の価値観は尊重した上で「合意」を基本に考える(リベラリズム).これには他人の価値を尊重しない考え方をどうするかという問題がある.
  3. なるべく多くの人を幸福にする社会を考える(功利主義).これには少数の犠牲の上での多数の幸福でよいのかという問題がある.(1人を殺して5人に臓器移植するなどの問題)


著者は上記のように整理した上で,本書の主張として,あるべき社会は「個人の立場から自分が利益を得られる社会」であるとし,自分も利益を得られ,あなたや他の人も利益を得られるという利益の一致が望ましく,メンバー全員に一定の利益獲得機会がある社会が望ましい社会だとする.そしてその配分原理として「人権」を位置づける.上位者も集団同士の抗争局面では一定の利益獲得機会を下位者に配分した方が自分の利益になるという理屈だ.このあたりは前著「自然主義の人権論」の主張の要約である.


前著の書評にも書いたが私は賛同できない.

  1. まず第一にこの原理(上位者にとっても得)からくる人権は狭すぎる.著者は奴隷制や男性優位社会のような一部メンバーに不利益が露骨にある社会は,反乱などの内部紛争のコストが大きく,外敵に侵略されやすいなどの不利益があり,上位者にとっても望ましくないとしている.しかし例にあげられているローマ帝国でもそうだが,奴隷反乱は実はまれだ.帝政ローマは200年の繁栄と平和を享受したし,その崩壊は奴隷反乱によるものではない(少なくともより人権に配慮した集団に負かされたわけではない).アメリカの南部も奴隷の反乱で負けたわけではない.ましてや女性の反乱で崩壊した男性優位社会はないのだ.著者のようなスタンスに立てば,上位者にとって得なら男性優位社会も奴隷制も是認することになってしまうのではないだろうか.私は「人権」は歴史の僥倖として人類が手にしたもので,真正面から価値を認めるべきものだと考えた方がよいと思う.
  2. また著者の主張は,結局なぜそのような社会に価値を認めるかの究極的な根拠がはっきりしない.前段とのつながりからいうとヒトの認知の基底にある道徳律,そしてそれが社会規範化したものが「正しい」ものだと認めているように思われる.(スポーツの基本と同じで信頼してよいというような記述もある)であればこれはきわめてナイーブな自然主義的誤謬だと評さざるを得ないだろう.
  3. そしてこのヒトの認知の基底にある道徳律は,現代社会に生きる個人の幸福のために進化適応したわけではない.「過去」の進化環境における「ヒトの遺伝子」にとって,「遺伝子プールの中での頻度を上げる」という意味において適応しているのだ.私はだからこの道徳律をそのままよいものだと認めることが「正しい」と考えるべきではないと思う.もちろん,私達は内なる情動で「無償の愛の美しさ」などの価値を心から感じるから,それを否定することは難しいだろうし,すべきでもないだろう.しかし微妙な場合,特に進化的な過去になかったような事例については内なる情動を無条件に信用する必要はないと思うのだ.いずれにせよ本書のスタンスはこの点であまりにもナイーブだろう.


というわけで,本書は進化的な考え方に触れたことのない人に,ヒトの心理の基底にある道徳律がなぜあるのかを解説する部分については一定の評価ができるものの,その後の記述はあまりにナイーブで誤謬に陥りやすいものだとしか評価できない.特に「誰にとっていいことなのか」をきちんと議論していないのは,進化的な考え方を標榜する上では致命的であり,大変残念である.自然主義的誤謬についてももう少し配慮した慎重な議論の仕方が望まれるだろう.



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前著 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071231

自然主義の人権論―人間の本性に基づく規範

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