ウォーレスの「ダーウィニズム」 第6章〜第7章

Darwinism

Darwinism



第6章 Difficulties and Objections 難点と反論


ダーウィンは自説の難点については大きく4つあげてそれぞれについて考察していくスタイルだった.ウォーレスは個別に次々と批判に対して答える方式をとっている.ダーウィンは難点を詳しく解説することによってより自説を強固にしようとしているのに対し,ウォーレスはあたるを幸いなぎ倒そうという感じだ.スタイルとしてはダーウィンの方がより生産的だろう.


さてウォーレスが最初に取り上げる批判は「変異が微小であればそれは保存されないのではないか」「変異が必要なときに生じる保証はあるのか」というものだ.ウォーレスは,変異はかなり大きく,恒常的に様々な変異が独立に生じていることがわかってきたのだと答えている.ここは第4章で強調してきたここ30年間の知見の集積部分ということだろう.


次は「眼のような器官が本当に自然淘汰で生じるとは信じられない」というドーキンスのいう「想像力の欠如による反論」というカテゴリーだ.
ここでヒラメの片側の眼が最初に上方に移動する時には利益がないのではないかという問題が取り上げられている.ダーウィンは海底に横たわった状態から周りを見ようとして身体をひねる運動による「用・不用」と自然淘汰の両方を理由としてあげている.ウォーレスは(あとから詳細に論じられるように「用・不用」を認めないという立場なので,)自然淘汰からだけで説明しようとしている.言い回しはわかりにくいのだが,「身体をひねることによって眼を動かせる能力」というものが自然淘汰によって進化すると説明しているようだ.単に上方に移動した変異があってそれがひねる角度を抑えることにより有利だったとすれば十分のように思われるので,このウォーレスの複雑な経路仮説は謎だ.恐らく敬愛するダーウィン説に引きずられたのではないだろうか.
このほかの前世紀の面白い議論には,爬虫類の鱗の模様が脱皮のためである可能性,クモザルの親指の無い手は枝から枝への跳躍を有利にしたかなどがあったようだ.


次は「有用でない性質が現在あることは自然淘汰の反証になるのではないか」という議論だ.
ウォーレスはダーウィンを引用しつつ「我々が何が有用であるかについて無知である可能性」をまず強調して,思いがけない有用性が理解されるようになった個別の例を見ていく.
まず花の形や色についてはダーウィンが様々な他家受粉の有利さを説明するまでは誰にも説明できなかったことを述べ,次に動物の色や模様について議論している.この動物の色や模様に適応的な意義があるというのは当時のホットトピックであり,かつウォーレスの関心事であったようで後に章を立てて詳しく解説がある.また様々な動物の尾や角についての議論もなされている.


次はちょっと現在から見るとわかりにくい批判だが,意訳すると「淘汰されると主張される有利な性質は交雑によって失われるのではないか」というものだ.ウォーレスの反論もわかりにくいのだが,「変異が十分にあれば,有利な変異も十分にあることになり,その中で交雑があっても自然淘汰のネットの働きにより平均値は適応性質に向かって動くはずだ」と答えているようだ.そうであれば,これはウォーレスの自然淘汰の理解が集団遺伝学的な発想も持っていることを示していると言えるだろう.


ここでウォーレスは関連トピックとして「隔離は種の分岐に必要不可欠か」という議論を繰り広げている.これも当時はホットトピックだったのだろう.ウォーレスは「隔離は重要であるが,不可欠というわけではない.むしろ生態的なニッチの分岐の方が重要であり,隔離はそのような環境の変化の原因となる場合が多いのだろう」と考えているようだ.このあたりは未だにはっきり解決しているわけではない問題だろう.



第7章 On the Infertility of Crosses between Distinct Species and the Usual Sterility of their Hybrid Offspring 種間交雑の不稔と雑種後代に通常見られる不稔性について


ウォーレスは本章の前段で,自然淘汰説の最大の難点は交配したときの稔性が変種と種で異なるという問題だったと述べている.これはダーウィンも4つの難点の中の1つにしている.現在から考えるとなぜそんなに難点だと思われたのかはわかりにくいが,ここにはっきり不連続性があるなら確かに説明は難しくなるのだろう.
ウォーレスの方針はダーウィンと同じで,交雑した場合の稔性や不稔性に非常にトリッキーな性質があることを個別事例を交えて説明し,自然界にはっきりとした種と変種の区別があって種間では不稔性,変種間では稔性を持つように整然となっているわけではないことを浮き彫りにしようというものだ.
飼育下でも実験が難しいこと,どちらがオスでどちらがメスかで結果が異なる場合があること,個体差があること,種間で稔性があったり変種間で不稔性が表れたりする例外があることなどを丁寧に説明している.なおウォーレスは花の異型性もこのような微妙性を示すものとして説明に加えているようだ.しかしダーウィンが示したように,これは近交弱勢と雑種強勢という副産物としての性質を前提条件として,ある種の植物が見事に適応した事例であって,ここで持ち出すのにはちょっと違和感があるところだ.


本章で面白いのは,ウォーレスがこのような種間交雑の不稔性が自然淘汰による適応形質である可能性を論じているところだ.ダーウィンは,このような不稔性はその個体にとって有利であるはずが無く,自然淘汰では説明できない副産物だと論じた.
ウォーレスはここで,変種間の雑種に(最初は副産物として)何らかの不利が一旦現れれば(その後はそれを条件として)そのような交雑を避ける傾向が適応として急速に進化するだろう.そして,さらに一歩進んで,より不稔性が現れた方が当該変種は有利になるので自然淘汰で不稔性が進化しうると議論している.これは交雑忌避傾向の進化までは正しいが,そのあとは群淘汰の誤りに絡め取られた議論のように思われる.このような淘汰の単位についてはダーウィンの方が遙かに深く理解できていたといわざるを得ないだろう.(厳密に言うと受精後も子育て投資をするような生物においては,親個体が変種間で交雑した場合に,不稔であった方が,そのような不利な雑種の子供に対する子育て投資を節約できて最終的に有利ということはあり得るかもしれない.それならば不稔性は自然淘汰で進化しうるだろう.ともかくウォーレスはそこまで緻密に議論をしているわけではない)
なおウォーレスはこのような場合に交雑忌避の仕組みとして,動物の体色や模様の進化が生じると考えており,特にコメントがある.(この部分についての議論は後の章に出てくる.)さらにウォーレスは体色が不稔性に関連しているのではないかとしていろいろな事例を挙げて議論している.この部分については間違っていたというほかないであろう.


最後にウォーレスはこの時代に唱えられた「同種個体間の不稔性が生理的淘汰という仕組みで進化しうる」という説(この説についても概説があるが,どう考えてもトンデモ風でいったい何を主張しているのかわかりにくい)に対して極めてクリアーに反論している.いつの時代にも,訳のわからない議論というものはあるらしい.