Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その7

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


「犯罪行為」を巡る第2章は,さらに残る「行為性」にかかるいくつかの論点を取り上げている.


<思想,考えることは犯罪にはならない>
これは刑事法の大原則「考えただけでは犯罪にならない」という問題だ.日本では思想信条の自由にかかる憲法問題ということになるだろう.

では何故そうなのだろう.カッツはまず心の中は証明できないこと,そして,それを罰するとするならすべての人が犯罪者になりかねないからだと説明している.また公衆への危害防止という刑法の目的からいっても,行為を禁止する方が自然だということも指摘している.


こはちょっと違和感がある.これは日本法でそう考えられるように,人権の問題と考えた方がよいのではないだろうか.証明はいずれできるようになるかもしれないし,考えただけでも危険があるのも確かだ.だから公衆への危険防止と,本人の思想の自由という価値を比較して,一律に後者の価値が高いと主権者が決断した結果だと考えるほうがしっくりくる.
また「考えるな」という命令を遵守することは「行為するな」という命令の遵守に比べて困難だという事情も当然背後にあるだろう.


さてカッツは「なぜこんな法原則がそもそも主張されるのか」に関して,実際にしばしばそのような制定法が定められるからだと指摘している.そしてそのような法律は文字通り解釈するのではなく,行為性を求めるべきだと議論している.日本であればそのような法律は違憲無効だということになるだろう.


<おとり捜査>
警察に誘導された犯罪行為は犯罪行為と言えるのか.


カッツは「罠の抗弁」として有名なアメリカの判例を紹介している.これは禁酒法時代に捜査官が戦友だといって被告と親しくなり,最初は何度か断ったがしつこい勧めに最後に酒を買いにいったという事例だ.判例は単に機会を与えただけのおとり捜査ならばこの抗弁は使えないが,おとり捜査が犯罪自体を誘発したような場合は無罪だとしている.
カッツは最近のFBIによる事例も紹介している.これはFBIが詐欺師を雇って国会議員に賄賂をつかませたというものだ.あの手この手の揺さぶりをかけ,最初は断っていた議員も,投資が別の地区に行きかねないといわれてついに金を受け取る.


しかしなぜ私達はこれを罰するのをためらうのだろうか.議員は確かに賄賂を受け取っているのだ.
カッツは,それは私達が「行為」と呼ぶための要件を満たしていないと感じるためではないかと示唆している.つまり普通の市民でもある特定の条件が満たされれば犯罪に手を染めると知ってその条件を満たすようにするということは,犯罪行為を罰するのではなく犯罪傾向を罰することになるからだ.
そういう背景により判例はこのようなおとり捜査に誘発された犯罪は,それは行為ではないとして実体法上無罪になるとしているのだ.


これもなかなか面白い考え方だ.通常日本では,おとり捜査が適法か違法かがまず問題となり(適法・違法の分かれ目はまさにアメリカのこの判例が影響して,機会提供か犯罪誘発かという基準によるという考え方が多いようだ),違法であれば,その捜査による証拠を法廷では使えないという刑事訴訟手続きの問題として議論されているようである.(だから誘発された犯罪であっても,別の証拠があればあれば有罪になりうるということになるのだろう)
しかし明らかにやり過ぎの捜査によって誘発された犯罪は実体法上も無罪であるという結論の方が望ましいということであれば,アメリカのようにちょっと苦しい解釈をせざるを得なくなるのだろう.


<言葉>
カッツはここで面白い議論をしている.
文章には叙述文と遂行文がある.叙述文は真理値を持ち,世界の何らかの有様を説明している.(例:「玄関にネコがいる」)遂行文は話し手が世界のあり方に影響を与えようという文章だ.(例:「あいつをぼこぼこにしてやろうぜ」)
そして犯罪になりうる言動は遂行文だけだというのだ.法律の正解では昔から遂行文のみを問題にしてきたというのだ.言論の自由が公共の福祉のために制限されるとするならそれは遂行文だけだというわけだ.


そうなのだろうか.ここは疑問のあるところだ.「○○人種は劣った存在である」という言説は「だから差別せよ」という文を含まない限り叙述文といわざるを得ないだろうが,これはやはり制限にかかると考えた方がよいのではないだろうか.結局その背後に遂行文的な意味を叙述文に持たせることは十分に可能であるように思われる.


カッツは言論の自由以外のところで法律がこの叙述文と遂行文を区別している例を挙げている.


刑事訴訟法:伝聞証拠の制限.これは叙述文にかかる伝聞のみが制限にかかる.「やつを殺せ」といったという証言は,発言者が直接世界に影響を与えようとしている「行為」にかかる直接の証言ということになるのだ.

労働法:組合結成の妨害の禁止.これが禁止されるのは遂行文的な言説だけだ.これに対して雇用にかかる誠実な予測を伝えることは許される.これは叙述文だからだ.

契約法:「I guarantee ・・・」と言ったときに,約束か予測かの解釈によって法的効果が発生するかどうかが異なってくる



そしてカッツは刑法も同じだという.刑法処罰の対象になるのは遂行文だけだというのだ.そしてそれは叙述文発話を罰するということは実質的に思想を罰することになるからだと主張している.


やはりこの結論には違和感がある.結局,形式と意味はずらしうるわけだから,どんな発話形式かが問題ではなく,ある発話をしたときにどのような結果が起こると予測していたかが問題にされるべきではないだろうか.Aが「Bはレイプ犯だ」と発言したら,Bはリンチで殺されると予測して発話して,実際にBが殺されたなら,その発話行為は形式如何を問わずに殺人行為と見ていいのではないだろうか.結局カッツが契約法の例で示しているように,個別の発話について個別に解釈するほかないのではないかと思われる.


第2章の「犯罪行為」は様々なトピックがごちゃ混ぜでいかにも判例法の世界だと思わせる.日本法とは考え方のフレームは異なっているが,実際の結論にあまり大きな違いはない.結局刑法とはヒトの道徳モジュールにあわせた形で運用しなければうまくいかないということなのだろう.