「日本の殺人」

日本の殺人 (ちくま新書)

日本の殺人 (ちくま新書)


裁判員制度開始を見据えた,法社会学者による日本の殺人の概説書.本書は日本における殺人の実態と,殺人に関する刑事政策の概要をかなりわかりやすく伝えてくれる.私的な動機としてはデイリーとウィルソン,バス,長谷川眞理子たちによる進化心理学殺人研究に関連した生データが得られるかと思って読んでみたものだ.


さて,事実として日本においては殺人の発生率が諸外国に比べて非常に低い.本書は前半でその中でどのような比率,数でどのような殺人が行われているかを紹介し,後半でそのような殺人犯が刑事施策としてどのように取り扱われてきたか,そして今後どうすべきかが論じられている.(なお本書では当然ながら進化心理学的なトピックについてまったく言及されていない.あくまで法社会学,刑事政策的観点から書かれた本である)


前半で大変残念なのは,もっとも詳しいデータソースが,1959年の司法研修所調査業書「殺人の罪に関する量刑資料」とかなり古いものである点だ.きちんと整理されたものがないことは知っていたが,生判例に当たって調べているのかと思って最新データを期待していた私としてはがっかりだった.とはいえ,最近のデータもある程度は使われているし,やはり生データは迫力がある.
結局日本では殺人は年間1200-800件ほどで,その半数以上が親族殺し.そのうち比率的に多いのは嬰児殺しと心中崩れということになる.どちらも現代日本ではよほどの事情がないと生じにくく,例外的な事件であることが強調されている.例外的な事件がマスメディアで集中的に報道されるのでこのような全体像はなかなかつかみにくいところであり,定量的な提示は本書の持つ価値の1つだ.


進化心理学的に興味がある児童虐待がらみの子殺しは,2004年で30件,加害者33人中,実母21人,実父7人,養父・継父2人,養母・継母1人,その他祖父母等2人ということになっている.あまりに数が少ないのでアメリカの研究におけるような継父継母によるリスクが高いかどうかは分析不能という感じだろうか.それでも継母継父が10%もいるとは思えないのでリスクは高いという仮説と整合的であるといえるだろう.
もうひとつ進化心理学でよく話題になる別れ話に絡む殺人については,よく推理小説などで持ち出される別の恋人との恋の邪魔になるから殺すという案件はほとんどなく,別れ話を持ち出された男が女を殺害するという形態が多いとされており,デイリーとウィルソンの北米におけるリサーチと整合的だ.(もっとも著者は面子がらみの動機だと考えているようである)
精神病と殺人の関係については,やや精神薄弱気味の殺人が多く,サイコパスのような異常性格によるものはほとんどないということらしい.サイコパスにとっては日本では殺人は割が合わないということなのだろう.


以上のようなデータは本書のごく一部であり,様々な類型化を行ってそれぞれの事情を解説してくれていて大まかな状況がよくわかる.また類型ごとの量刑の相場も示されていて興味深い.結局合理的な人は日本で殺人をしようと思うことはごく少なく,よくよくの事情があったり,その場でかっとなって刃物を持ち出すような事件が大半であることがわかる.


本書で予想外に興味深いのは後半の刑事政策の実態のところだ.結局日本では法律に書かれていないところで非常にうまく制度が組まれていて,広い裁量の中で更正可能な殺人犯をうまく更正させる仕組みになっているのだということが強調されている.そのよい例は,例えば介護疲れで殺人してしまった場合,仮に執行猶予等で犯人が家に帰っても面倒を見てくれる人がいない場合には,どんなに同情できる事情があっても執行猶予とせず,あえて1年程度の実刑にして,本人を落ち着かせ罪を償ったという自覚を持たせる方が,後追い自殺などの悲劇を未然に防げるのだというような部分だ.
また(諸外国に比べ)極めて丁寧な捜査と起訴便宜主義かつ一旦訴追した場合の高い有罪率が日本の刑事政策の特徴であり,捜査,逮捕,訴追の一連の流れがプロの技として巧みに処理されてきたことが,取り調べの可視化について警察当局が反対する理由であるだろう(そして恐らく可視化するとこれまでできたうまい処理がしにくくなるのだろう)ということも示唆されている.
結局日本では,刑務所の具体的運用,保護観察などの制度により,犯罪はいわば「穢れ」の世界として通常社会から切り離されてうまく処理できていた.(強盗殺人の再犯率が非常に低いのは他国との比較では驚異的であるとされている)だからまっとうな社会のなかにいれば非常に安全な社会であったが.今後はその制度が保てなくなるだろうとも示唆されている.そういう意味でも裁判員として「穢れ」の世界にかかわっていくことには意味があるのだという主張だ.

このほかにも本書では,殺人被害者側の視点,死刑の是非(死刑に抑止効果はないが,ごく例外的に死刑が妥当な犯人がいるのも現実)などを取り上げていて興味深い.


全体として,日本の殺人状況が定量的にある程度わかるようになっているし,刑事政策について,さらに日本文化についていろいろ考えさせてくれる本になっている.裁判員制度導入のまさにこの時期にふさわしい新書だと思う.



関連書籍


殺人にかかる進化心理学の本は以下のようなところだ.

人が人を殺すとき―進化でその謎をとく

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「殺してやる」―止められない本能

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私の原書の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060708