Bad Acts and Guilty Minds 第3章 罪深き心 その2

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


前回,故意の内容に錯誤があれば,場合により犯罪が成立しないことがあることを見てきた.


そもそもなぜ法は犯罪の成立に「心理的要素」(英米法用語ではメンズ・レア:mens rea)を要求するのか?槍を突き出して人が死んだら殺人ということでよくはないのか.なぜある種の勘違いがあれば許されるのだろう.


ここでカッツは面白い議論をしている.私達が犯罪に心理的な要素を要求するのは言語に関連があるのだという.


<言語用法との関係>

次の文章が正しいとする.
「ケインがアベルと食事をした.」「アベルはロシアのスパイだ.」
ケインがアベルの正体を知らなくても「ケインはロシアのスパイと食事した.」と言い換えられる.あるものが何かを指し示しているときにそれは言い換えられるのが普通だ.

しかし指し示しているものが人の心理的要素とからんでいるとこれは言い換えられないことがある.
「ケインはアベルと食事をしたがっている.」「アベルはロシアのスパイだ.」
としたときにケインがアベルの正体を知らなければ「ケインはロシアのスパイと食事をしたがっている.」とは言い換えられない.

つまりあるものをサルだと思って殺したときに,その正体が人であることを知らなければ,「彼は人を殺した」とは言えても「彼は人を殺したいと思った」とは言えないということだ.


なぜ言語はこのような特徴を持つのか.
ドイツの哲学者フレーゲは「ケイン」といったときに,それが「その人」を指している場合と「その人が考えていること」を指すときの両方があるからだと説明した.
アメリカの哲学者バーワイズとペリーは,置換はできるが,その後の文章がミスリーディングなので許されないのだと説明した.


いずれにせよこれが犯罪の成立にとって錯誤が重要である理由だという.
このあたりはあまり説明として成功しているようには思えない.結局私達は何らかの錯誤があると,その人の意図は錯誤がないときとは本質的に異なっていると感じるわけで,それが言語の用法にも犯罪の成立にも現れてくるというだけではないだろうか.



<錯誤信念の一貫性と程度の問題>
さて面白いのはここからだ.ではどのような錯誤があれば人の「意図」あるいは「認識」は否定されるのか.

カッツは,結局ある「事実でないこと」を信じているというときには,その周辺のいろいろな状態を含めて考えなければならないと力説している.そしてそれは信じているか信じていないかの2値体系ではなく連続しているのだ.
そしてある信念があるというためには,それはそれ以外の現実やそのほかの信念と因果的に適切な関係でなければならない.(これは要するに「自分が何を言っているか」がある程度明らかでなければならないということだ.どこまでも支離滅裂であれば何も信じていることにはならない)


カッツは,だから私達は<類型1>「魔女殺し」を簡単に殺人だと決めつけるのをためらうのだという.その被告の「魔女」の信念は,いったいどのような近隣信念と現実のあいだに埋め込まれているのか,その詳細がわからなければ判断しにくいと感じるのだ.


また,Aを狙ったためがそれてBに当たった場合<類型2>も私達は「殺人」として処罰するのをためらう.それは全くの別人を「人」として一括りにするのは,ちょうど別人を同じ人だと勘違いしていたのと同じように思うからだ.そしてそれは典型的な殺害意図とは異なるように感じるのだ.


さらに,殺してみたら別人だったという場合<類型3>にも無条件で「殺人」と考えるのをためらう気持ちが私達にはある.これも典型的な殺害意図からは距離があるのだ.


カッツは,上記3類型を分けて処理するこれまでの判例(類型1は幽霊はセーフ,魔女はアウト,類型2,3はアウト)に疑問を呈している.結局すべては程度の問題ではないかということだ.
そしてドイツでは類型2は殺人としないが,右の胸を狙って左の胸に当たった場合には有罪にするだろうし,アメリカでも,毒リンゴを狙われた人が食べずにゴミ箱に捨て,それをホームレスが食べてしまった事件については殺人を適用していないと指摘している.(これは日本では因果関係の相当性が議論されるところかもしれない)またAがBを雇ってCを殺させようとして,誤ってAを撃ってしまった場合に,Aは(助かったとして)自分に対する謀殺未遂容疑で逮捕されるべきだろうかと問いかけている.


さて日本ではどう考えられているのだろうか.
まず法律の錯誤と事実の錯誤の区別は理念型としてある.「法の不知は恕せず」という格言通りに「殺人」が法律違反とは知らなかったという言い訳は通らない.だから法律の錯誤は故意を阻却しないし,事実の錯誤は故意を阻却する.しかしこの区別はあいまいだということもよく認識されている.結局類型化によって問題が解決するわけではなく,個別の案件ごとに非難可能性がある認識事実はどのようなものかを詰めていくほかない(そしてその作業の結果が類型化に現れる)という理解が一般的のようである.


カッツの類型2は「方法の錯誤」,類型3は「客体の錯誤」と呼ばれている.そして解釈としては具体的符合説と法定的符合説があり,前者は方法の錯誤について故意を阻却すると解するのに対し,後者は方法の錯誤も故意は成立するとする.前者がドイツ的,後者がアメリカ的ということになろうか.また判例は一貫して法定的符合説(つまりアメリカ的解決)を採っている.
なお私が参考にしている前田本では,そもそも方法の錯誤と客体の錯誤の境界は曖昧であり,この2つを峻別する理由がないとして法定的符合説を採りながら,極端に認識と離れた結果が生じた場合には例外的に「帰責し得ない」として排除すればいいのではないかとしている.要するに人を殺そうとして人が死んでしまったら基本的には責任を問うべきだが,どこかで問い得ないようなものになりうることを認めているということで,これはカッツの考えにやや近いものだと考えられるだろう.ただしカッツのように仮想現実の全体像を把握する必要があるという認識にまではいたっていない.


なお類型1については日本ではあまり議論になっていないようだ.日本の刑事法の殺人罪の運用局面では「人だと思っていませんでした」という言い訳は「そんなことがあるはずはない」としてまず問題にならないということだろう.これは今後裁判員制度の運用の中で問題になってくるだろうか?



関連書籍


このあたりでもう一度参考にしている本を示しておこう.


アメリカ刑法 (LexisNexisアメリカ法概説 (3))

アメリカ刑法 (LexisNexisアメリカ法概説 (3))

刑法総論講義

刑法総論講義