Bad Acts and Guilty Minds 第3章 罪深き心 その3

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


犯罪の責任要素を考える第3章.故意に関する錯誤の問題を論じた後,カッツは様々な責任要素の類型分けについて議論を始める.


日本では責任要素は「故意」と「過失」の2類型で議論される.アメリカでは要求される責任要素についてはコモンロー由来の様々な個別表現がみられる.
例えば以下のように様々な判例用語があるようだ.
謀殺について:intentional, malicious, willful, deliberate, purposeful, calculated, premeditated, knowingly, conscious
故殺について:reckless, wanton, irresponsible, negligence, careless

これを英米法の刑法学者はおおむね4類型に整理している.「意図」intent, 「認識」knowledge, 「無謀」recklessness, 「過失」negligence, だ.カッツはこれ以上説明していないが,4つに類型化して区別する実務的な理由は,同じ犯罪結果が生じてもこの4類型によって犯罪カテゴリーが異なったり,量刑が異なったりすることになると思われる.(ちょうど日本でも故意による殺人と過失致死では犯罪種類が異なり量刑が異なるのと同じだろう)


<意図と認識>
さてカッツのここでの問題提起は「意図」と「認識」はそれほどきちんと区別できるのかということだ.ここを区別していない日本刑法から見るとわかりにくいところがあるが,「ある人が死ぬことを望んで殺した場合」と,「死なない方がいいと思いながらも,それを行えば人が死ぬことになるとわかっている行為を行った場合」では非難すべき程度が異なっているというのがアメリカの刑法の仕組みということで,それが前提の議論である.(恐らく,意図がある場合と認識のみの場合で,様々な犯罪において量刑が異なることになると思われる)


カッツのあげるケースは,逃走する車にしがみついた警官をジグザグ走行して振り落とした案件で,被告は「警官を振り落としたい,死んで欲しくはないが,落ちたら死ぬだろう」と思っていたというものだ.
この場合結果を予測していて,望んではいなかったが,ほかの目的のためにやったということになる.

結局殺人自体何らの最終目的のために行うのであれば,「意図」と「認識」を分けるのは,その被害者の死という結果が,最終目的のための「手段」(遺産相続のために祖母を殺す)だったのか,あるいは「副産物」(Aを殺すためにバスを爆破して同乗者を死なせる)だったのかという違いになる.

しかしこの違いは微妙だとカッツは主張する.
まずある結果が目的のための「手段」なのか「副産物」なのかは質問を変えることによりフリップできるだろう.最初のケースに戻れば,最終目的は逃走だ.逃走を成功させるためには警官を振り落とさなければならない.振り落としたら死ぬだろうという場合,これが手段なのか,副産物なのかは概念的にあいまいなのだというのがカッツの主張だ.


また逆に認識せずに意図できるかという問題もある.成功しないと認識しながら殺害行為を行って成功した場合には「意図」したことになるのだろうか.
カッツは,奇数を出したいと思ってサイコロを振って奇数が出た場合に,それは奇数を意図して出したとはいわないだろうという.しかし6が出れば爆弾が爆発するのであれば,爆破を「意図」したことにならないのか.リボルバーに弾を1つだけいれて発射したらどうなのか.


哲学者E. J. ローエはこの場合「意図」して撃ったことにならないだろうという.そして「意図」しなかったわけでもないという.この結論は普通の人の感覚「この場合は「意図」して撃ったと言うべきだ」にあわない.
哲学者キム・デイビスは,背後に隠れた仮定があるのだと議論した.「失敗してもまた撃つつもり」なら「意図」して撃ったと言えるというわけだ.しかし普通の人の感覚では1回限りだけ撃つつもりであっても「意図」した殺害行為を認めるだろう.


カッツはこのように整理している.
この場合,殺害行為にはコントロールできる要因(引き金を引く)とできない要因(リボルバーのちょうど真上に実弾がきている)がある.コントロールできる部分について「意図」があれば,全体に「意図」ある殺害行為を言えるのだろう.
単にサイコロを振るのは,あまりに予備的な行為であるので,通常殺害行為とはならないのだろう.(サイコロに起爆スイッチが組み込んであって,自動的に爆発が生じるのであれば,サイコロを投げる行為自体が殺害行為になるということになるのだろうか)
要するに結果をコントロールできることについてのみ「意図」があるかないかが問題になるという議論のようだ.



この議論は「意図」と「認識」を区別するアメリカ刑法ならではの議論だ.意図がある場合とない場合で非難の程度は異なってくるべきだという信念をそのまま法にすると,割り切れないところで悩んでしまうということなのだろう.
日本刑法では「認識」があれば「故意」は成立するので,このような問題は生じない.結果を認識していればよく,結果を直接望んでいたかどうかはあくまで量刑の参考になるだけだ.*1概念的にきちんと区別できないということであれば日本刑法の処理方式のほうがより広く対応できるのだろう.(もちろん量刑がより広く恣意的になるという問題もあるわけだが,このあたりは法の運用に対する法文化の問題でもあるのだろう.)

*1:なお日本では「未必の故意」に関しては結果を容認・願望したかどうかが重要であるという考え方があって,単に認識した以上の要素が必要かどうかについて議論があるようだ.容認・願望が必要であるとすれば,容認・願望がない場合は故意は阻却され「認識ある過失」になる.アメリカ刑法では「未必の故意」の多くは「無謀」カテゴリーに落ちるのでまたちょっと扱いが異なる.同じ責任要素が,日本では最上級の「故意」になり,アメリカでは4つのうち上から3番目の「無謀」になるというのもなかなか興味深い