Bad Acts and Guilty Minds 第3章 罪深き心 その4

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


犯罪の責任要素を考える第3章.さてカッツが次に問題にするのは「無謀」と「過失」だ.


カッツによると,重大かつ正当化しえない(unreasonable)リスクをとった場合には「過失」,そのリスクを意図的にとれば「無謀」ということになる.この差もあいまいで面白い問題のようだが,とりあえずカッツは別の問題を議論したいようだ.
(教科書には「無謀」の定義は「重大かつ正当化し得ない危険を意識的に軽視する」ことと紹介されている.あまり深く考えずに行動したような場合が典型的な場合なのだろうか.カッツのように捉えると,日本法でいうと「無謀」には一部の重過失に加えて未必の故意のかなりの部分が含まれるということだろう.「故意」について意図があるかないかかを問題にするのとパラレルに,「過失」についてもリスクをとることに意図があったかどうかで類型分けをするというということだと思われる.前回も書いたが,しかしその結果日本法では「未必の故意」とされるものが「無謀」に組み入れられるというのはなかなか面白い現象だ.)


「意識的に軽視する」部分や「意図的にとる」部分も興味深いのだが,カッツはここでは「リスク」について問題にする.「リスク」については一般的には以下のように理解されているようだ.

  1. まずこれは合理的な一般人にとってという趣旨だとされていて,法廷は個人的なハンディキャップを考慮するのには消極的だそうだ.
  2. 正当化できないというのは,そのようなリスクをとった理由とリスクのおおきさ(実現可能性と結果の重大性)の比較衡量を行うという趣旨だとされている.


<リスクと目的の比較衡量とフレーム効果>
カッツは,リスクについて比較衡量するということなら,これは価値判断の問題で,心理学でいう「フレーム効果」の影響を免れないだろうと指摘している.フレーム効果はヒトの認知において利益と損失の評価に非対称があり,問題を利益ベースで提示されるか,損失ベースで提示されるかで最終的な判断が影響される現象を指している.アメリカの刑事裁判は陪審制なので,陪審員にどういうフレームでリスクを提示するかは裁判の結果に重要な影響を与えるだろう.
カッツは具体的なフレーム効果を示す例をいくつも例示している.


600人の命のうち1/3を助けるという有名な例(200人を助け400人をあきらめるか,確率1/3で全員を助け2/3で全員をあきらめるかの選択について,助ける方にフォーカスするか,あきらめる方にフォーカスするかによって選択が変わってくる)などが紹介されている.私が興味深かったのは以下の例だ

1から36までの目が出るルーレットがある.
あなたは次のどちらかに賭けられる.
A:1-35までの目なら4ドル受け取るが36が出れば1ドル払う.(期待値3.861)
B:1-11までなら16ドル受け取る.13-36までの目が出れば1.5ドル失う.(12の目が出たらどうなるのかあいまいだがとりあえずそのときは0とすると期待値3.889)

どちらを選ぶかと聞かれると多くの人はAを選ぶ.
ここまでは人々はリスク回避的であるので期待値が小さくてもAを選ぶということになる.

ではこの賭ける権利を売るとして,いくらなら売るかと聞かれると,多くの人はBにより高い最低売却金額を設定する.
権利を売るというフレームにすると,そのとたんに運が良いときの利益がズームアップされるのだ.


そしてカッツは陪審がいかにフレーム効果で影響を受けそうかについて次の小話を紹介している.

二人のカトリックの僧が祈りと喫煙を同時にすることが許されるかどうかを議論していた.
次の日,片方の僧が満面に笑みをたたえて現れた.
「私は教皇猊下に尋ねました,『神に祈りながらタバコを吸うなどということが許されましょうか』と.猊下は『もちろん駄目じゃ』とお答えになりましたよ.」
もう一人は穏やかに答えた.「私も猊下に尋ねたのですよ.『喫煙中に神に祈りを捧げることは許されないでしょうか』と.猊下は『もちろん許されるとも』とお答えになりましたよ」


もちろん訴追側,弁護側がそれぞれ相手の主張と異なるフレームがあるのだと陪審に提示すれば,陪審は2つのフレームを見比べて合理的に判断できるだろう.しかし600人の問題で医師が簡単にフレーム効果にとらわれたことを考えるとこれはそれほど単純ではないだろうとコメントしている.


<確率の理解>
カッツの「無謀」「過失」にかかる2つめの論点として「確率の理解」をあげている.
ヒトは確率概念の理解が苦手なことで有名だ.カッツはこれまた有名な「リンダ問題」を紹介している.ヒトはきちんとした確率を計算しようとせず,目の前の手がかりに飛びつくのだ.
またヒトは最初に提示された手がかりを重視してしまう.
これらは正当化できるリスクだったかどうかを冷静に判断するのが難しいことを示している.


カッツはさらにヒトの物事の生起確率の認知は迷信に深くとらわれていると指摘する.例えば,くじは自分で引く方が当たりやすいなどと考える人は多いのだ.カッツはこの手の迷信は教育程度とは無関係だと指摘している.


いずれにせよ「過失」はヒトの認知にとっては難問だということだ.