ダーウィンの「人間の進化と性淘汰」 第5章

ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)

ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)


第5章 原始時代および文明時代における,知的・道徳的性質の発達について


ダーウィンは前章で様々な形態的な適応形質について語っているが,本章では知的能力を取り上げる.
まず,知的能力自体が自然淘汰の対象になりうることを説明している.個体の生存にかかるなら当然だろう.生存競争において重要であることを示すのにダーウィンは19世紀現在で文明人が未開人を駆逐しつつあることをあげている.何らかの証拠を挙げるのに当時もっとも説得的だと考えたのだろう.しかし累積した文明の技術はそのグループの知的能力で決まると素朴に考えているのはさすがにちょっと残念なところだ.


ここからダーウィンはヒトの知的能力が自然淘汰で選択されてきた淘汰環境について語っている.
そしてその中心となる環境は「社会性」だ.
まずダーウィンは部族には血縁者も多かっただろうと述べ,知的能力が変容し,発明が広がるならその部族全体の利益になっただろうという.
また社会性により,仲間への愛,共感,忠誠,勇気などの感情がある部族の方が,部族間抗争で有利だっただろうとも推測している.
ここでダーウィンは「勇気」などの性質は集団内で不利になるのではないかということを取り上げている.ダーウィンは「誰かを助ければお返しがあり得ること,仲間からの賞賛を得られることなどから必ずしもそうではない,個人が特に不利でなければ,部族間抗争で有利になる形質は進化する」と議論している.ここは選択の単位の問題に絡むところで非常に注目すべきところだろう.


自然淘汰の選択の単位に絡む本書の議論に関する私の感想ををここでまとめておこう.

本書では「ダーウィンが勇敢さなどの特質を利他性だと考えていたのか」「それの進化についてグループのためとか種のためという議論にスロッピーにはまっていたのか」ということに関して微妙な表現が数多く現れる.巻末では矢原先生もまとめているが「ダーウィンはおおむね問題を把握していたが時に混乱している」という受け止め方のようだ.


私も今回注意深く読んでみたが,「ダーウィンはおおむね問題の本質を把握しているし,混乱もしていない.ただし一部ぎりぎりの状況の議論の説明振りが甘いところがある.また所々,途中の過程を飛ばして表記して誤解される文章になっている場合がある」という印象だった.この場所の記述はその典型だ.


まずダーウィンが「種のため」議論に陥っていないことは明白だ.グループのための利益になる行動が進化するとしてもそれは一緒に暮らしている仲間であり,その仲間には血縁者が多いという認識ははっきりある.
そしてある行動がグループのためになり,同時に個体のためにもなるなら進化する(あるいは個体にとってはニュートラルなものまでは進化する)というのがダーウィンの基本的な立場かと思われる.


さらにここでダーウィンははっきりと.「勇敢さなどのグループのための行動は,個体にとっては不利になるのではないか」ということについて論じている.そして(残念なことに)その説明は明瞭さを欠いているが,しかし,お返しを得たり(直接的互恵行動)仲間からの賞賛と非難という状況(間接的互恵行動)からみてそうではないと議論している.これは極めて現代的な議論でダーウィンが同時代の学者から100年以上進んでいたように読めるところだ.
私の印象では「互恵行動」を強調しなかったのは,そのような動機は「下賤」だとダーウィンが感じていたことが大きいのではないかと思う.


さて次の部分でもダーウィンは注目すべき議論を行っている.


<文明化の後も自然淘汰はヒトに対して働くか>
ダーウィンの答えはイエスである.そして文明が進み病院で病気を手当てするようになるとこれまで自然淘汰で淘汰されていた弱いものも生き残り悪い影響が出るだろうとしている.これについてダーウィンは,「これは高貴な行いに基づく結果なのだから不平を言わずに受け入れるべきだ」という価値判断をここで示している.
また「勤勉に働いて成功しようという性質」が自然淘汰にかかることは良いことではないかとも議論している.(面白いのは放蕩息子が財産を食いつぶすようなことも生じると指摘しているところだ)


「向こう見ずの子だくさんのような性質」が今後蓄積するのではないかという懸念(その後の優生学的な懸念の代表としてあげられているのだろう)についてもダーウィンはそれほど心配はないと答えている.

  • 知的能力にかかる淘汰は引き続きかかり続けるだろう.
  • また道徳的でないものについては文明においては処罰されるので,これまでなかった好ましい淘汰圧がかかるだろう,
  • 不摂生は文明においてはより健康に悪いし,見さかいのなさには様々な不利な点があるだろう,
  • そもそも悪い影響が多いのなら文明は最初から興隆しなかっただろう

(さらにここでダーウィンはアマチュア歴史家のように「ではなぜあの素晴らしい古典ギリシアは栄え続けなかった」のかにまで踏み込んで議論している.ダーウィンは,小国に分かれ,連帯がなかったことなどを指摘しているが,さらに奴隷制だったこと,文化に節制がなく官能的だったことなど(これは次のローマも同じだったのだから歴史的な議論としては弱いだろう)まで指摘していて,奴隷制への嫌悪や,ヴィクトリアンらしい文化的嗜好が窺えて面白い.)


全体として,ダーウィン自然淘汰は引き続きかかり,文明はそのかかり方を変えているが,それは懸念するほど大きくはないし,仮に何らかのよくない影響があるにしても,それは(高貴な行いに基づくものであり)受け入れるべきだといっているようだ.これはその後の優生学的な主張についてのダーウィンの基本的な考え方を示しているのだろう.第二次世界大戦までの世界の風潮はゴルトンの優生学の主張にヒトラーのドイツだけでなく英米も賛同していたのだから(それはEugeneという名前がよく見られることにも現れている)ダーウィンの考えは当時としてウルトラリベラルであることがよくわかるところだ.