Nowak , Tarnita, E. O. Wilsonによる「The evolution of eusociality」 その24


Nowak MA, CE Tarnita, EO Wilson (2010). The evolution of eusociality. Nature 466: 1057-1062.


<Groupselection is not kin selection>
Supplementary Information,Part A "Natural selection versus kin selection"


包括適応度陣営から見たマルチレベル淘汰理論の評価はどういうものだろうか.まずWestたちの総説論文を読んでみた.これに対してかちんときた(であろう)D. S. Wilsonが反論を寄せる.


Wilson DS (2007) Social semantics: Toward a genuine pluralism in the study of social behavior J Evol Biol 21, 368-373.


D. S. WilsonはWestたちの総説について,彼等は真の多元主義ではないといきなり噛みついている.これは多元主義を自認しているであろうWestたちを十分面食らわせただろう.Wilsonの議論を見てみよう.


まずWilsonは理論間の関係を整理する.
最初に,2つの理論が排他的であり,片方が正しければもう片方は正しくないもの.例として性比の説明に関するグループの繁殖差異に基づく説明と個体の繁殖差異に基づく説明を挙げている.ウィリアムズは性比が全部メスに偏らないことは前者からは説明できないと明確に議論した事を解説している.(ここは特別興味深い.これは私の目から見ると「古いグループ淘汰理論」が誤っていることを明白に示しているものだと思えるのだが,Wilsonの頭の中ではそうなっていないらしい.要するに「古いグループ淘汰」の定義が異なっているのだろう)
次に2つの理論が同じものでパースペクティブの違いに過ぎないもの.この例としてハミルトンの包括適応度理論とドーキンスの利己的遺伝子が挙げられている.またここで面白いのはテイラーたちが包括適応度と同じものをWdirとして「直接適応度」と呼んでいることも取り上げている.これはまさにWestたちが,「既に使われている用語を別の意味で使って混乱を招く」として非難しているものであって,ここはWestたちも一本とられているというところだ.


つぎにWilsonは適応度について,包括適応度理論では絶対的なものと規定するが,グループ淘汰理論では相対的に規定するのだと主張する.そしてこれはダーウィンにまでさかのぼるのだと.
Wilsonによると.ダーウィンは,個体にとって不利な利他形質がグループ淘汰によって残ることを,絶対的な適応度としては低いが相対的に高いという文脈で理解したのだということになる.そしてホールデンやライトも同じく相対的に考えていたと主張している.


ここは私には理解できない.包括適応度理論においてもある形質が進化するかどうかはその形質の包括適応度が集団全体より高いか低いかという相対的なところで決まる.適応度が絶対的に見えるように規定されていることが多いのは,多くのモデルでは集団の平均適応度を1と置いていることや,弱い淘汰条件において議論しているためではないだろうか.
そしてダーウィンはグループ淘汰については混乱しているということだと思う.彼は基本は個体淘汰的に物事を考えていて,社会性のハチについては血縁淘汰的な記述があるのだが,ヒトの道徳傾向についてはグループ淘汰的に記述しているということだろう.


ここから「新しいグループ淘汰理論」についてのWestたちへの反論が書かれている.

  1. Westたちは「新しいグループ淘汰」と「古いグループ淘汰」がまったく連続性がないものとして書いているがそうではない.
  2. Westたちは1960年代の「古いグループ淘汰」の否定が正当化されていると書いているがそうではない.
  3. Westたちは「新しいグループ淘汰」は包括適応度理論に対して何ら新しい洞察をもたらさないと書いているがそうではない.


1.についてはあまり中身のある反論ではない.というより「古いグループ淘汰」という用語が両者の間でずれているだけのように思われる.Wilsonは新旧は歴史的に連続していて,新しいバージョンは古いバージョンが拡張されたものとして捉えている.それはそうかもしれないが,しかしグループにとって有利ならそれだけで進化すると考えるか,個体淘汰との優劣を考えるかというところではまったく別の理論だと考えるのが普通だろう.


2.をよむとWilsonが「古いグループ淘汰」についてこのような定義と違うものを念頭においていることがよりはっきりわかる.Wilsonは,「メイナード=スミスがほとんど成り立たないとした数世代にわたって繁殖集団が続くようなモデルでもパラメータによってグループ淘汰が成り立つ」「オーバーポピュレーションを避けるための繁殖抑制はバクテリアで見られる」という反論を書いている.「繁殖集団が一時的なものか数世代続くか」が新旧の分かれ目ということならこういう主張も成り立つだろう.結局Westたちが新旧の定義について多元的に書いたつけがここに来ているというように思われる.しかし「グループにとって有利ならそれだけで進化すると考えるか,個体淘汰との優劣を考えるか」が新旧の定義と整理すれば,古いグループ淘汰ははっきり成り立たないという整理で良いということになろう.



3.ではWilsonはグループ淘汰フレームではじめて洞察されたものがあると主張している.(ここが多元主義にかかる部分になるのだろう)
「集団に粘着性がある(分散が限られている)場合に必ず利他性が進化するわけではない.分散が限られると競争も激化する.繁殖集団に広まるには分散も重要」という洞察はグループ淘汰理論ではじめて得られた.これは後に包括適応度理論でも確認されたが,最初に得たのはグループ淘汰理論を通じてだったというわけだ.またヒトについても多くの洞察が得られたとしているが詳しくは書かれていない.
このあたりは「何の洞察も得られなかったわけではない」ということになるのかもしれない.しかし本当に重要なのは「最初」かどうかではなくて,包括適応度理論では得にくかったかどうかだろう.


Wilsonは最後に,かつてグループ淘汰的モデルとされていたものがいまでは包括適応度的と見なされている例(メイナードスミスによる単独メスによるコロニー創設モデル)などを挙げながら,問題はあるモデルをどのフレームとして分類するかではなく,ある形質が進化するかどうかであり,用語の混乱のコストを払っても多元的に考えた方がよいと主張してこの寄稿を終えている.


この最後のリマークはWestたちの主張とすれ違っているだろう.Westたちはあるモデルをどうフレームするかを問題にしているわけではない.現代的な包括適応度的モデルとグループ淘汰的モデルの双方の有益性を比較して議論しているだけだ.そしてその本質的な部分についてはWilsonは反論できなかったということだろう.
また用語の混乱を避けるために多元主義を放棄しようといっているわけでもない.そもそもWestたちは多元主義をとっているし,その上で用語の混乱は避けた方がいいだろうといっているのだから.


さらにいえば多元主義を否定しているのはむしろWilsonだというのが私の印象だ.すくなくともSoberとの共著においては因果の実在の立場から包括適応度理論よりグループ淘汰理論の方が優れていると主張しているのだから.というわけで,この寄稿はWestたちにとってはまさに面食らうほかないものだったと思われる.果たして彼等は再反論を行う.