「遺伝子医療革命」

遺伝子医療革命 ゲノム科学がわたしたちを変える

遺伝子医療革命 ゲノム科学がわたしたちを変える


本書は分子遺伝学者フランシス・コリンズによる遺伝子医療の最新知見・動向を一般読者向けにわかりやすく紹介した啓蒙書である.原題は「The Language of Life: DNA and the Revolution in Personalized Medicine」.コリンズはヒトゲノム計画の代表を務めたこともあるこの分野の大立て者の1人であり,このような内容の本の著者としては最もふさわしい人の1人だろう.なおコリンズは前著「The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief」(邦題「ゲノムと聖書」)において宗教の信仰心と科学の実践が矛盾しないことを主張していることでも有名だが,本書においては宗教がらみの話題はほとんど出てこない.*1


本書は序章でコリンズの身の回りで生じた経験が語られる.遺伝子検査は今や誰の手にも届くところに来ており,様々な疾病リスクが評価される.アメリカでは,個人がインターネットで簡単に遺伝子検査を申し込め,結果をウェッブ上で教えてくれるサービスがいくつもあるそうだ.コリンズは比較のためにこれらのサービスを自分自身について3カ所で受けてその結果を示している.それはまだまだごく初歩の段階に過ぎないが,それでも人々に与えるインパクトは強烈であり得るものであることがよくわかる.


第1章ではDNAにかかる初歩の解説があり,疾病リスクにかかる考え方が解説される.疾病リスクは明らかに遺伝の影響を受ける.いくつかのよく知られている遺伝子領域を調べるとある種の疾病にかかるリスクが通常の何倍であるかが評価できる.現時点ではなお知見の集積が途上のため,広範囲の疾病リスクの評価においては家族歴が非常に重要であることが強調されている.


第2章では極めて遺伝的な影響が強い「まれな疾病」が取り上げられる.嚢胞性線維症フェニルケトン尿症などの有名な例がまず解説され,早期発見早期介入が好影響を与えるものであれば,新生児の遺伝子検査やスクリーニングが望ましいことが説かれる.これが一歩進むとカップルの保因検査の問題になる.子どもを作るかどうか,選択的中絶を考えるか(この場合胎児のスクリーニング,さらには着床前スクリーニングという問題となる)に関わってくる.このあたりまでは様々なところでも紹介されている問題だ.しかしここからの第3章以降は遺伝子医療の最前線の説明になる.


第3章は「よくある疾病」のリスク判定の状況.現在では多くの疾病に関して,「よくあるSNP(一塩基多型)」との相関が大量に調べられている.相関が発見されたものの多くは,ほんの少しリスクを上げたり下げたりするものだ.*2 具体的には II型糖尿病が例にとられて説明されている.コリンズは実際にこのようなリスク診断を一般の人が受けるであろうことを想定して,相対リスクという表示の意味を解説し,診断をどう受け止めるかについて,リスクの大きさ.コスト,介入法の有無などにより対応を考えるべきことを丁寧に書いている.リスクが高めと診断されたものについては,そのリスクを下げるように生活習慣を考えたり,検診の際に医師に申し出て注意深く調べてもらうなどの対応を勧めている.
現時点では,これまで見つかったSNPでは観測される遺伝率のごく一部分しか説明できない.これらは遺伝性にかかるダークマター暗黒物質)と呼ばれているそうだ.これについては(1)よくあるSNPの中にごく小さい影響を与えるものが多数ある.(2)まれなSNPに大きな影響を与えるものがある.(3)反復などのSNP以外の多型が影響を与えている.(4)SNP同士が非相加的に影響を与えている(組み合わせが重要)などの仮説があり,現在精力的にリサーチが進んでいるそうだ.このあたりは病気の進化的な説明とも絡む部分で興味深い.


第4章は癌について.乳癌,およびいくつかの癌については大きな影響を与える遺伝子変異がわかっている.乳癌の頻度の高い一族の調査協力と遺伝因子の発見の経緯が紹介されているが,その調査協力者への保因告知を巡る一族の人間模様の話は重い.*3 
このような単純な要因の癌は少なく,多くの癌は多数の遺伝因子が少しずつリスクを上下させている.この後癌の発生と進行についてわかっていることがまとめられ,多くの遺伝因子,環境要因が組み合わさって癌の仕組みのいろいろな段階に影響を与えてリスクを決めているものであることが解説されている.
癌においては癌細胞が何らかの変異を起こしている訳なので,その変異を解析する取り組みが進んでいる.(癌ゲノム全配列決定というプロジェクトになる)これにより分子標的薬が可能になる.(実際に奇跡のように特定の種類の癌に効く薬がいくつか見つかっているらしい)コリンズはこの方向が進めば,癌の分類はこれまでのような臓器別部位別ではなく分子的なものになり,それに合わせたパーソナル対応の治療が可能になるだろうと見通しを述べている.


第5章では人種の問題が扱われている.現在の人種やエスニシティの理解のされ方があまり意味のないものであることがまず解説される.その後人類の拡散とともに遺伝的浮動が固定している様子や,一部では自然淘汰が効いたことを説明し,皮膚の色の遺伝的要素が非常に単純な問題であることにふれている.
ここまでを前置きにして,最近議論のある人種別の医療という問題を扱っている.皮膚癌やいくつかの遺伝病について人種カテゴリーでリスクを推定することが無意味であるわけではないが,現在の「人種」や「エスニシティ」の集団間の差異については非遺伝的な要素の方が大きいこと,当初喧伝されたアフリカ系向けの認可薬は,おそらく他の人種の患者にも有効だが米国の認可プロセス上そういう形でしか売れなくなったという経緯があることなどが説明されている.
また現在アメリカで行われている祖先を突きとめるDNA分析サービスはあまり科学的でないと批判している.また犯罪現場のDNAから人種を推定して容疑者を絞り込むというDNAプロファイリングにも批判的だ.リベラルな感覚の人には受け入れがたい手法ということだろう.


第6章は感染症にかかる様々な話題を扱っている.HIV耐性の遺伝子変異や,ヒトの微生物群集のDNA分析などの話は興味深い.第7章は精神障害にかかる話題だ.精神障害にかかる「よくあるSNP」分析では影響を与えるものはほとんど見つかっていない.これはネガティブな影響を与えるものだから進化的に考えてまれな変異にしか見られないだろうというのがコリンズの解説だ.そうかもしれないが,それほど単純でもなさそうな気もする.このあたりは今後の研究の進展待ちというところだろう.
コリンズは,状況反応性の鬱,依存症などは遺伝率から考えて,なりやすさを遺伝因子で予測できるようになるのではないかと述べているが,知力や性格に関しては否定的だ.このあたりはリベラル的教養人の限界かもしれない.確かに今はまだ明確なSNPは見つかっていないようだが,依存症傾向と性格が何か本質的に異なるものではないだろう.コリンズは「パーソナリティは生まれた後いかようにでも変わりうる」とまで述べているが,それは事実というよりリベラルの願望のように思える.


第8章では老化を扱っている.ハッチンソン=ギルフォード症候群による早老症の遺伝因子が語られたあと,寿命に関する話題が扱われている.ここで老化についての進化的議論もなされているが,基本的にきちんと理解できてなく浅い.閉経は進化で説明できないとスロッピーな議論を行いつつ,おばあちゃん仮説にも触れていて,混乱しているように見える.ここは大変残念なところだ.


第9章はパーソナル医療の最前線.いくつかの薬では効き方にかかる遺伝的変異が判明している.また副作用にも遺伝要因により出方が異なるものがある.このような場合には当然,患者の遺伝子分析を行って投薬するかどうか,用量を定めた方が効果的だ.コリンズはかなり具体的に薬剤名まで挙げて説明している.治療方針決定前に遺伝子検査を行うことが望ましいが,現状では臨床で必ずしもそうなっていないと指摘している.


第10章は遺伝子医療の今後の展望だ.
期待の高い遺伝子治療について.何故生体内遺伝子治療は難しいのか.それはどうやって届けるかという送達の問題,どうやって適切なところで発現させるかいう機能の問題,そして免疫反応の問題があるからだ.悲劇的な結果に終わった試み,素晴らしい成功談(黒内障の治療に成功している)が紹介されている.また遺伝子だけでなく丸ごと細胞を移植するという手法,つまり幹細胞治療についてもES細胞,iPS細胞やその利用法の展望が解説されている.
コリンズは,このような様々な技術の進展を紹介しながら,さらにこれをうまく利用するために,(1)研究を続けること(政府予算のカットが問題になっている)(2)電子カルテの整備(DNA情報を医療機関で共有できることが望ましい)(3)政策決定,特にそのスピード(4)教育(医者にも患者にもリテラシーが必要)(5)倫理問題の解決,が必要であると主張して本書を終えている.


本書を読むと,ヒトゲノム計画が達成されたときに語られた様々な夢の一部が少しずつ現実の物になろうとしているのがわかる.
遺伝子検査により自分のリスクが今よりずっと定量的に示されることは運命の水晶玉を見せられるようなことかもしれない*4アルツハイマーリスクのように対処がないものについては確かに悩ましいが,リスクを知って対処できることも多いことを考えると,このようなリスク評価にはある程度覚悟を決めてつきあうことが望ましいのだろう.
そして社会としては有効な遺伝子治療のためのシステム整備が治療成績を大きく左右していくことになるのだろう.癌の分子標的薬や,薬効のパーソナル医療が当たり前になる日が早く来ることを望まずにはいられない.
本書では最新の遺伝子医療の全体像が分かりやすく解説され,さらに単に技術的側面に触れるだけでなく,その際に生じる私達へのインパクトについても丁寧に書かれていて,そのリアリティが迫力を持って伝わってくる.バランスのとれたよい啓蒙書だと思う.



関連書籍


The Language of Life: DNA and the Revolution in Personalized Medicine

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原書


The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief

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前著

基本的には信仰と科学は両立するという主張をあまり根拠なく行っている本で,「ヒトの道徳律が進化では説明できない」旨の議論もあるそうだ.本書を読んでも感じるが,コリンズはゲノムには詳しくても進化についての理解はかなりスロッピーだ.


ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える

ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える

同邦訳

*1:遺伝子医療における倫理問題に関して若干の記述はある

*2:加齢性黄斑変性などいくつか大きく効くSNPも発見されている

*3:女性は保因者であったりなかったり告知されるが,どちらの場合も様々な衝撃を本人たちに与える.男性も保因していれば娘がリスクにさらされている可能性があるのだ.(この例にあげられている医療機関では18歳未満の人に対して癌のリスクの遺伝子検査はしない方針だった)乳癌リスクについては自分は無関係だと思っているところにいきなり告知され娘のリスクに直面するのは衝撃だろう

*4:もっとも今でも家族歴や環境因からある程度はわかるので程度の差という問題でもある