「イカの心を探る」

イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類 (NHKブックス)

イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類 (NHKブックス)


本書はイカの知性に興味を抱いたイカの研究者の研究物語である.ヒト以外の動物の知性の研究については霊長類やイルカ,それに一部の鳥類のものが有名だが,イカというのは意表を突いている.本書ではそのような研究にいたった経緯や研究の苦労物語を交えて語ってくれている.


本書はまずイカとはいかなる動物かという紹介から始まる.分類学的にはタコやオウムガイと並んで軟体動物の頭足類に属し,大きくコウイカとツツイカに分かれるということになる.これらは全て海産である*1.日本人はコウイカとツツイカを普通「イカ」と呼び区別しないが,英米では一般的な名称としてcuttlefish, squidと呼び分ける.日本でもっとも一般的なスルメイカは外洋性のツツイカで寿命は1年*2なのだが,その1年で日本周辺海域を大きく回遊するのだそうだ.片方で同じツツイカヤリイカアオリイカ,またコウイカは沿岸性で大きな回遊はしないらしい.またツツイカは群れを作るがコウイカは単独生活が基本らしい.このあたりはあまり知られていないところだろう.
次にイカの飼育は難しいことが語られる.特にツツイカについて成功したのは1970年代になってからだと言うことだ.著者自身の飼育体験も語られている.このあたりの描写は現実の難しさをよく示していて面白い.


さて,では何故イカの知性研究なのか.実はイカは脳がかなり大きく(アロメトリーグラフ上では魚類・爬虫類より明らかに大きく,鳥類・哺乳類の領域の下の方ぐらい),視覚も発達していることで知られる.著者は何故近縁の貝類に比べ頭足類が大きな脳を持っているのかを考え,哺乳類で言われているマキアベリアン仮説の連想から,イカの社会性に興味を持つ.そして実際に調べてみるのだ.
沿岸性のツツイカであるアオリイカ(そして近縁のアメリアオリイカ)は海の中で大きさ順に一列に並んだり,あるいは端に歩哨と思われる個体が出現したりする.またどのような個体が横に来るかで体色変更パターンが変わる.また餌をとる順序などで調べるとある程度の順位制がある.どれだけ他個体のそばにいるかを統計的に処理すると群れごとのネットワーク構造も現れる.調べればどんどん原始的な社会性が現れてくる興奮がよく伝わる.


次は知性そのもの,学習や記憶の話になる.ここはまず様々な先行研究が語られている.彼等は明らかに学習するし,さらに短期記憶と長期記憶があるようだ.学習については,活発に動くプランクトンをうまく捕るには孵化直後からそれを経験していないとだめだというリサーチが紹介されていて面白い.知性研究は近縁の(飼育しやすい)タコの方が進んでいて,模倣能力があることなどが紹介されている.タコについては図形認知のリサーチが特に興味深い.彼等は図形を水平成分と垂直成分に分けて認知している.だから棒の縦と横は区別できるが,左斜めと右斜めは区別できないのだ.著者はコメントしていないが視覚認知モジュールの構成がヒトとは相当異なっているのだろう.
著者自身のリサーチとしては鏡像自己認識のリサーチが紹介されている.なんとイカは鏡に向かって,ほかの対象には示さない行動をとり(近寄っていって触る),さらに驚くことに低温麻酔をして染料を注射してマーキングすると,有意にその側を映して見るようなのだ(まだ標本個体数が少なくて予備的な結果だそうだが).また群れの他個体について個体識別をしているようだという結果も紹介されている.このあたりの記述もスリリングで読み応えがある.
次は知性の発達の話題.面白いのはインプリンティングの存在を示唆するリサーチだ.ある餌を餌として認知するには,孵化後のある特定の時期にそれを経験していなければだめらしい.また学習能力や体色を変化させて背景に擬態する能力が幼少期の環境に大きく左右されることも報告されている.そして著者は群れ行動を行う能力も環境の影響を受けることを調べている.


著者は最後によくイカを食べている日本でよりイカ学が進む事を期待すると書いて本書を終えている.本書は研究者自身による面白い啓蒙書で,イカにかかるなかなか驚きの能力がどんどんわかっていく様子が生き生きと書かれていて読んでいて大変楽しい本だ.今後研究が進み,哺乳類とは独立に進化した認知モジュールの収斂具合がわかってくると大変興味深いだろうと思う.

*1:何故淡水性のイカがいないのかはなかなか面白い問題だ.著者は浸透圧の問題かもしれないとしているが,そのほかの広範な動物が淡水に進出しているのだからそれだけでは説得力がないだろう.

*2:大半のイカは寿命が1年と言うことらしい.ダイオウイカについては知られていないとある