「The Better Angels of Our Nature」 第3章 文明化プロセス その1  

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined


第3章 文明化プロセス


暴力減少の事実をたどっていくピンカーの次のテーマは文明化プロセスだ.本章は西洋のテーブルマナーから始まる.西洋のテーブルマナーでは,ナイフの使い方が厳しく制限されており,基本的にフォークで押さえたものを切る以外のことは禁止されている.すると豆のようなものをフォークですくうときに寄せるために使うのもNGになる.何故こんな不自由なことになっているのだろうか.*1それは「文明化プロセス」の結果だというのだ.この章の議論はノルベルト・エリアスの「文明化プロセス」が元になっている.*2


まずは暴力減少の数字を追っていく.


<ヨーロッパにおける殺人の減少>


ピンカーはいろいろなデータを挙げているが,大まかに言うとヨーロッパでは1300年から1900年にかけて殺人率が1/10から1/100に減少している.殺人はそのほかの暴力的犯罪と強く相関しており,計数収集時の誤差脱漏,検挙率を考えると減少傾向は過小評価されている.
減少している大きな要因は見知らぬ男性による男性の殺人の減少で,ピンカーによるとこれはこれは血縁者間の利益相反よりも,名誉をめぐる男性同士のコンフリクトの方が文脈依存的なためと考えられ,また上流階層の方がより減少しているそうだ.


これはヨーロッパが中世から近世に移り変わってきたときに相当する.ではどうしてなのだろう.


<ヨーロッパの殺人率減少の説明>


ここでピンカーは世間にある誤解をまず取り上げている.それは「都市や産業革命は社会に暴力的な悪影響を与えただろう」あるいは「ヨーロッパの中世の教会を中心にした小さな信心深い街は安全だっただろう」というものだ.しかし事実はそうではない.ヨーロッパは都市化が進みコスモポリタンになり,世俗化し産業化するほど安全になっていったのだ.


なぜそうなったのかを説明できるのはエリアスの「文明化プロセス」だとピンカーは言っている.彼は中世ヨーロッパの時代の描写から始めているそうだ.ここで15世紀のドイツの図版「The Medieval Housebook」の中の騎士による略奪のイラストが紹介されている.このほか中世のヨーロッパ人がいかに粗野だったかが次々と紹介される.
面白いのはマナーについて書かれたエチケット本を当代きっての思想家が書いていて,さらにその内容はみだりに人前で排泄しないとか,鼻をかんだりつばを吐いたりすることとか,食事でがつがつしないとかにかかる現代で言えば3歳児向けのような内容だそうだ.

マナーを原則にまとめると以下のようになるそうだ.

  • 欲望を自制せよ,我先に食べたりガツガツしたりしない
  • 他人の感情をリスペクトせよ
  • 粗野になったり動物のようにするな


性的なことも現代よりはるかにオープンだった.公的なところでよく裸になったし,性的関係を隠そうとはあまりしなかった.浮気,妾,売春もオープンだった.
言語的にはもともと農民を表す言葉が「粗野」という意味になっていて,農村部では特に粗野だったことがうかがえる.


要するに現代見られる,衝動を抑え,長期的な結果を考え,他人の感覚に気配りするような「自制」はヨーロッパが数百年かけて築いたものだというのがここの議論だ.


数百年かけてエチケットやマナーが確立された.その中にナイフの使用のマナーがあるのだ.これはもともと中世ではナイフは各人が持ち歩き,肉の塊から肉を切り取り口に運ぶのに使ったのだが,ナイフを振り回すのはだんだん受け入れ難くなってきた
そしてナイフの使い方エチケットが創案される.ナイフで歯をつつかない,使わない時には持たない,ナイフで口にものを運ばない,パンを切らない,握りこまず指で持つ,誰かを指してはいけない.そしてフォークが導入され口にものを運ぶのはフォークの役目になった.ナイフは先が丸いものが特別に用意され,その目的以外には使わないことになった.


中世以来のナイフのタブーは今も残る.
ナイフはプレゼントをする時はコインをいれてそれを返してもらい売買のようにする.直接渡さずにいったんテーブルにおく,切る以外の用途には使わない.だから食べ物を寄せるのに使ってもだめということになる.


東洋ではテーブルに(食事用の)ナイフを持ち込むのを早くからタブーにして,調理場でのみ食材を切り,テーブルには箸しかない.ピンカーはヨーロッパより洗練されているとコメントしている.


日本ではどうだろうか?明治以降のマナーは西洋から輸入したものだが,平安から鎌倉,室町,江戸と少しずつ自制するようになり粗野が薄れているだろうか.私にはあまりこのあたりの歴史的知識はないが,江戸は庶民にとってかなり安全な都市だったという話*3もあり,少なくとも室町後期と江戸の大衆文化を比べると文明化プロセスがあったといってもよいのではないかという気がする.


ではなぜこのような自制が強調されるようになったのだろうか.エリアスはそれを心理的なものだと説明する.


関連書籍


エリアスの「文明化プロセス」

The Civilizing Process: Sociogenetic and Psychogenetic Investigations

The Civilizing Process: Sociogenetic and Psychogenetic Investigations


邦訳もでているようだ.私は原書,訳書とも未読

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)

*1:ピンカーは子供の頃不器用だったのでこのルールが不合理に思えてならず,親に「何でだめなの」と文句を言ったが「私がそう言ったから」と言われて引き下がるしかなかったと述懐している.

*2:これは1939年にドイツで出版されたものでエリアスはその後ナチの圧政を逃れ,レチェスターに脱出することができたということだ.

*3:犯罪率を推測した統計はあるのだろうか?ちょっと探してみたが見つけられなかった