「The Better Angels of Our Nature」 第3章 文明化プロセス その5  

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined


アメリカの暴力傾向の謎は地域差だけではない.アメリカでは1960年から80年代まで犯罪率がかなり高くなった.これはなぜなのだろうか.ピンカーはこのトピックにも切り込んでいる.


実はこの1960年代に始まる30年間の暴力低下傾向の一時的反転はアメリカだけでなくヨーロッパでも規模は小さいながら観察される.
ピンカーは触れていないが,これは日本では観察されない.日本では1900年から1950年代まで第二次世界大戦中一時期下がったほかはおおむね4程度で横這い,そしてアメリカと逆に1960年頃から着実に低下して近年では1未満ということになっている.


<1960年代の脱文明化>

ピンカーはまずアメリカでどのような状況だったかを整理している.
殺人率は1957年の水準4.0から1980年のピークで10.2まで上昇,レイプ,強盗などの犯罪も同じく上昇した.特に黒人男性においては殺人率は72まで上昇した.

これは60年代から80年代のアメリカ文化,政治風景,日常生活を大きく変えた.ピンカーは例として,犯罪ジョーク(セントラルパークは死のトラップの代名詞だった),マンハッタンのアパートのものすごい防犯対策,郊外への脱出,本や映画での犯罪シーン,女性の護身術,ガーディアンエンジェル,保守派の台頭,ブッシュvsデュカキス選挙における犯罪者への措置の争点などを挙げている.これらはアメリカの読者にはなじみの深いものなのだろう.ピンカーは,実際には酒場で若い男性と口論しなければリスクがものすごく高かったわけではないが,これはアメリカ人の心理に大きく刷り込まれたとコメントしている.
そしてこれは1950年代の全ての社会科学者の予想を覆した.1950年代,1960年代は繁栄の時代だった.経済成長は高く,失業率は低く,経済格差も大きくなかった.差別は減少傾向で,社会保障や医療は上向きだったのだ.



《要因》
では何故なのだろうか?ピンカーはこの原因は90年代の再逆転も説明できなければならないとし,様々な考え方を順番に検討している.


(1)人口動態
西部と同じように若い男性が多かったのだろうか?背景となる時代の人口動態を見ると,第二次世界大戦中から結婚ブーム.そして1946ー1954のベビーブームがあり,彼らが15歳に達したのが1961年になる.だから確かに若い男性が増えた.しかしそれだけではこの犯罪の上昇全部を説明できない.1960から1970までの上昇率135%のうち13%しか説明できない.


(2)「社会規範」の変質
多くの社会学者が提示する説だ.しかし何がその社会規範を変えたのかを指摘できなければ,何も説明したことにはならない.


(3)J. Q. ウィルソンの文明化プロセスオーバーフロー説.
若い男性の数が増えて,それ以上の世代による文明化させる能力を超えたというもの.具体的には若い男性とそれ以上の男性の比率を問題にする.しかしこれだけでは説明し切れているようには思えないというのがピンカーの見立てだ.


(4)ベビーブーマーとマスメディア
ピンカーはしかしこの3番目の考え方は基本的に正しい何かをつかんでいたのではないかとみている.ベビーブーマーたちはそれまで800年間続いた文明化プロセスの方向性を逆転させたのだ.その大きな特徴は彼等の一体感,団結感で,それはテレビを通じてなされたのではないかという.要するにベビーブーマーは史上初めてテレビと深夜ラジオとともに育った世代であり,多くの若者たちが同じ境遇にあることを知ったのだ.(ピンカーはこれを行動科学者の言う「共有知識」だと指摘している)そしてそれはポピュラーカルチャーを作った.


(5)ポピュラーカルチャーとカジュアル化
ピンカーはそれまでの文明化プロセスは上流階級の規範やマナーが下流に流れてくるものだったが,民主化以降これはもはやお手本とはならなくなり,これが大きなカジュアル化の流れを作ったのだと指摘している.それはまず態度や服装に現れる.帽子・手袋をしない,スポーツウェアを着る,ファーストネームによる呼びかけを広く使うなどがその典型だ.
そして1960年代に,これに現体制への不信が加わったという.まず公民権運動(黒人差別反対運動)の抑圧でアメリカのエスタブリッシュメントはモラルの染みをつけた.それに核,貧困の放置,インディアンの扱い,リベラルでない軍事介入(特にベトナム),環境破壊,女性・ゲイの抑圧などが続いた.ピンカーは「権威への懐疑」には良いことも多いが,副産物として,数百年かけて平和になったブルジョワのライフスタイル価値観の魅力を下げてしまったのだとコメントしている.


この結果,価値は宮廷から下がってくるのではなくストリートから上がっていくものになってしまい,ポピュラーカルチャーが文明化の流れに逆らった.下から上がっていった価値としてピンカーは以下のものをあげている.

  1. 自制しない:自発性,自己表現,禁止への抵抗が価値となった.Do it! ロックンロール,30歳以上の奴らは信用するな,狂気のロマン化,ドラッグ
  2. 相互依存の無視:サイケデリック,協調性・時刻厳守の否定
  3. 結婚と家庭への懐疑:一夫一妻で子育てという考えが嘲笑されるようになった.
  4. ヒッピー:清潔性・礼儀ただしさ・性的抑制の否定*1


ピンカーはこれらの価値観は確かに暴力を肯定してはいないとしている.彼等のスローガンはlove and peaceだった.しかしズボラさや自堕落は暴力につながりやすかったのだ.
一部のロックは暴力を礼賛した.50年代にロックが現れた時にそれは「モラルを破壊し,無法を助長するもの」と評された.確かに直接のつながりはない.しかし元にある脱文明化の心がロックと暴力両方につながったのだ.


《脱文明化から暴力への道》
では具体的にはどのようにポピュラーカルチャーが犯罪を増やしていったのか.ピンカーは次のように説明している.


(1)インテリによる暴力の再解釈

マルクス主義が再解釈され,権威へ反抗手法としての暴力が肯定される風潮が生まれた.落書きは「芸術」になり,泥棒は階級闘争者に,そしてフーリガンはコミュニティリーダーになった.要するにインテリはこれらのならず者を支持したのだ.これはレイプにも及んだ.(例としてブラックパンサーの事例が挙げられている.彼等は,白人女性へのレイプを,白人の価値観への反抗で,過去の白人男性がやってきたことの復讐だと表現し,メディアもこれに理解を示すような論調だったそうだ.フェミニズムの興隆が1970年代と10年遅れたというのがピンカーの解説だが,マイノリティへの配慮に取り憑かれたリベラルの限界ということだろうか)


(2)刑事司法の弱腰化

インテリの風潮は判事や検察にも影響を与えた.さらに犯罪は人種差別・貧困・教育の失敗によるものという認識が厳罰化を阻んだというのがピンカーの説明だ.
そして実際に検挙率,有罪実刑率は下がる.1962年から1979年にかけて逮捕率は0.32から0.18に,検挙者の実刑率は0.32から0.14に,掛け合わせると実効実刑率は0.10から0.02に下がった.


(3)地域コミュニティの崩壊

司法がソフトになると地域コミュニティは重大な影響を受ける.放浪,定職につかないこと,物乞いは非犯罪化され,器物損壊や落書きでは警察は動かなくなった.抗精神薬の向上や人々の認識の変化で,それまで精神病院に収容されていた人々が街に住むようになった.それまで地域を守っていた店のオーナーや市民は,守りきれなくなり郊外に逃げ出した.


(4)個人の選択

それまで農場に働きに出ていた若者はギャングになった.性の自由化で結婚しなくてもSEXできるようになったのだ.ドラッグも街に溢れた.ドラッグディーラーの参入障壁は低く,そして彼らは警察に頼れずに自衛するしかなかった.


(5)アフリカ系の人々への影響

この脱文明化はアフリカ系に特に影響が大きかった.まず,もともと若者が多い.これに加えて警察の保護を受けにくくなり,自衛に走るしかなかった.そして特にアフリカ系で母子家庭が増加した.
父親のロールモデル不在で暴力化という考えは眉唾だが,そのような子供はより男性社会の中で競争を余儀なくされて暴力化することは十分あり得ただろう.そしてワイルド西部と違って女性に文明化を促すバーゲニングパワーがなかったのだ.


以上がピンカーの説明だ.流れるような解説はなかなか説得的だ.そしてこれと同じ暴力上昇は,絶対レベルは低く,程度も小さいが,カナダ,英国,イタリアでも観察される(ドイツ,フランスでも,こぶは非常に小さいがその傾向が見える).
だからまったく上昇が見られない日本が例外なのだろう.確かに日本でもベビーブームはあったし,テレビや深夜ラジオに若者は影響を受け,ポピュラーカルチャーが興隆した.そして60年安保から安田講堂陥落にかけて学生運動の嵐が吹き荒れた.しかし殺人率は上昇していない.ピンカーのシナリオに沿ってみるなら,インテリによる再解釈はあってもそれはあくまで反体制側にとどまり,警察と司法が揺らがなかったということになるのだろう.だからコミュニティも脱文明化しなかったのだ.
なぜそのほかの西洋民主主義国家と異なり日本だけ警察司法が揺らがなかったのかは興味深いが私の手には余る.いずれにせよ私達はそこに感謝すべきなのだろう.

*1:ジョブズの伝記を読むとこのあたりはよくわかる.