Steven Pinkerによる投稿「The False Allure of Group Selection」に対する各方面からのコメント その3 


これまで紹介してきたコメント以外にもいくつか注目すべきコメントがある.


ジェリー・コイン 「グループ淘汰の問題」


ジェリー・コインは自分のブログでもこれについて論じている.(本ブログでも紹介済み)その要旨は以下の通り.

  • 「新しいグループ淘汰」は包括適応度理論と等価であるので,それで記述できる内容は全て包括適応度理論をもって記述できる
  • そして「新しいグループ淘汰理論」は概念や用語が曖昧で混乱の元であり,理論的にも包括適応度理論に比べ扱いにくい.
  • グループ淘汰理論を用いた方がより理解できるような生物学的現象は自分が知る限りない.
  • しかしこの論争が続くのは著名な主唱者たちが騒いでいることと,背後にテンプルトン財団の邪悪な意図と資金があるからだ


本コメントでも基本的に同じ内容が書かれているが,3点目に関していくつか内容が追加されている.

  • 私は理論生物学者ではなく実験生物学者だ.その目から見るとグループ淘汰理論の最大の問題は,それでうまく説明できる生物学的現象が皆無であることだ.
  • もし自然界において血縁淘汰が少なくグループ淘汰が多いなら,非血縁者に対する自己犠牲的な協力行動が多く見られるはずだ.
  • しかし動物において協力的なコロニーは全てかなり濃い血縁グループだ.ヒトにおいてもグループのために盲目的に犠牲になるような行動は観察されない.


「包括適応度理論」と「新しいグループ淘汰理論」は等価だから,どちらかでしか記述できない現象はないし,コインは冒頭でそれを明言している,だからコインは「どちらを利用した方がわかりやすいか」を問題にしているのだろう.そしてよりグループ淘汰のフレームで説明したほうがいい現象は皆無だと力説しているのだ.


リチャーソンは文化進化についてのピンカーのコメントに反応している.


ピーター・リチャーソン (無題)


まずピンカーは自然淘汰が生じるためには変異はランダムでなければならないと書いているがそうではないと主張している.淘汰は(どのようなパターンであっても)変異があってそれが遺伝すればいいはずだと.


この指摘は正しいが,ピンカーは「変異がランダムでなければ自然淘汰が生じない」と書いているわけではない.最初から意図があるなら,「デザインを全くの自然の過程だけで説明する」という自然淘汰の説明力の重要な側面に意味がなくなるし,実際の文化進化の主張の多くは自然淘汰の緩いメタファーに過ぎず,普通の歴史記述で十分説明できると書いているだけだ.


そしてリチャーソンは実際の文化はかなりランダムに近い変異をして,その有用性にしたがって淘汰されることがあるのだという(実証的な)主張を続いて行っている.例として挙げられているのは宗教の教義の変遷(そしてモルモン教の成功)だ.
そして全ての文化の変化を個人の創意工夫に帰するのは,それこそデネットの言う「スカイフック」ではないかと皮肉っている.


このあたりは実際に文化の特徴に,個人的な創意工夫や,歴史的な記述ではとても説明できないような性質があるかどうかという見解にかかるところだろう.これは理論というより実証の問題で,議論に値する問題というところだろうか.


リチャーソンは続けて文化進化とグループの問題を取り上げ,次のように整理する.

  • 近隣グループ間の文化の違いは,その属する人々の遺伝的差異よりも大きい
  • 文化は人々の移動や通婚ほど容易に交わらない一方で進化速度は速い.
  • 社会心理学のリサーチからは,グループ内の文化的変異を抑えるメカニズムがあることがわかっている.
  • つまり心理学的にはグループは明確な実体なのだ.
  • グループはそれぞれ独自の規範と組織を持ち,メンバーがそれに同調するように報酬と罰の制度があるので,同調できるかどうかは個人の成功にとって重要だ.
  • だからメンバーは内心不賛成でもグループの規範に従う.これはグループ内での個体淘汰圧力を減らし,グループ間の違いにかかるグループ間淘汰が効きやすくなる.
  • このことにより子供はグループの規範を熱心に学ぶ傾向があることが容易に理解できる.だから文化差は保たれやすい.


このあたりはかなりナイーブな印象だ,まずグループ間で文化的差異が遺伝的差異より大きいとして,それがグループ淘汰でしか説明できないと何故考えるのだろうか?様々な偶然の要素により多様性があるという説明で十分可能ではないだろうか.
また「グループに同調圧力があれば(それはあるだろう)グループ内の個体淘汰圧力が小さくなる」と考えるのは考察が浅いのではないだろうか.そうかもしれないし,逆にそれをいかにうまくかいくぐって,あるいは操作する側に回ってゲインを稼ぐかという戦略が重要になる(つまり同調圧力があるために個体の適応度の分散が上がり,個体淘汰圧力が高くなる)ということだって十分あるだろう.
このあたりは「文化の特徴は通常の歴史記述で十分可能だし,グループ淘汰主義者は代替説明が目に入らなくなっている」というピンカーによる批判を地でいく内容のように思われる.


またリチャーソンは本当に利己的なヒトとはサイコパスであり,それは適応度が小さい(そしてそれはグループ淘汰から説明できる)ともコメントしている.


ここは思いっきりナイーブな議論だ.サイコパスの適応度が低いことは個体淘汰の立場から全く容易に説明できるだろう.要するに(この後登場するギンタスと同じく)リチャーソンは遺伝子視点の進化理論のポイントが全く理解できていないのだろう.
私はミーム的な文化進化と遺伝子進化の共進化過程の分析はそれ自体面白いと思っているが,その主な主唱者のひとりであるリチャーソンのこのようなコメントにはがっかりさせられる.


ハーバート・ギンタス 「ヒトのモラルの進化について」


ギンタスのコメントは,まずピンカーの(包括適応度的,互恵利他的名声マネジメントとしての)モラルについての説明に関する彼自身の考察だ.しかし各所にどうしようもないほど致命的な誤解が混じっていてまことに残念だ.


特にドーキンスの「利己的な遺伝子」の主張を「ヒトは個体としても利己的だ」というメッセージに受け取っているのは,(リチャーソンと同じで)どうしようもなく理解が浅いというほかないだろう..
また進化的な議論と意識的な意図の議論を混同してしまっている.だから進化的な環境下では「二度と会わない見知らぬ人」に会う可能性が少ないという問題を「明白なインストラクションがあればそれを覆せるはずだ」と誤解している.
要するにギンタスは,進化ということについての理解が決定的に浅く,特に遺伝子視点の進化の見方が全くわかっていないということなのだろう.


利己性の例として取り上げられているのは投票行動だ.多くの人々は選挙において自分の投票で結果が変わる可能性が極めて小さくても投票に出かける.これは経済学者がよく取り上げる非合理的行動だ.ギンタスはこれが「利己的な遺伝子理論」では説明できないとしている.「投票に行く人」は公表されてなく,それに名声がつくとは思えないという理由だ.
(上記の利己的遺伝子と個人の利己性の誤解,進化的議論と意図の誤解をおいておくとして)そもそもそれに名声がないと断定するのはやや疑問だ.(他人に自分はよい人だと印象づけようとするなら,それが目撃されるチャンス,自分自身に対する自信などの観点から,投票に行くぐらいは十分安いコストかも知れないではないか)
さらにこれに対するギンタスの説明は「ヒトはそもそもモラル的だ」というものだ.(これでは何の説明にもなっていないだろう.ギンタスはこれについて文化と遺伝子の共進化から説明できるという立場のようだが,詳細は明らかではない)


次に文化進化についてもピンカーのコメントに反論している.
「グループ淘汰主義者たちは遺伝子進化についても興味があるし,文化と遺伝子の共進化の見方は単なる歴史記述以上のものだ」という主張だ.このあたりはリチャーソンの指摘と同じだろう.先ほども書いたが結局これはそのような説明の方が適切な例がどれだけあるかという見解の問題ということになるだろう.
ギンタスは進化心理学を批判して,その代替フレームとして「文化と遺伝子の共進化」を取り上げるという(私には全く理解できない)立場を著書でも明らかにしている.このコメントからだけでは明らかではないが,このあたりにも何重にも誤解があるようだ.


また次に理論的な問題を取り上げている.まず血縁淘汰とグループ淘汰は排他的ではないということを書いている.これらはピンカーも多くのコメンテイターもわかっていることだろう(ハイトはちょっと怪しいが).しかし確かに記述としてはわかりにくいものが多くなっている.おそらくこれがこの論争をややこしくさせる1つの特徴なのだろう.
この直後に最近の理論的研究によれば「利己的遺伝子理論は利他的な個体を生みだしうる」ことが明らかになったとも書いているが,それは最初から明らか(というかドーキンスの本の主題はそこにある)であったのであり,それに関する大誤解を冒頭に書いているのはギンタス自身なのだ.議論に参加するための基礎的素養に欠けているとしかいいようがない.


最後にギンタスは,ピンカーがこの論争には政治的な側面があると書いていることについて,どのような本や論文もそのような結論は導いていないと噛みついている.これは隠れた意図を問題にしているのが理解できないということなのだろうか.あるいはそのような隠れたものを問題にすべきでないといっているのかもしれないが,ややすれ違っている印象を受ける.


このコメントもかなりがっかりさせられるものだと評価するしかないだろう.
この2人のコメントを読むと,どうも「遺伝子と文化の共進化」を主張する人たちはきちんとした進化生物学の理解なしにやっているのが見えてきて,(ピンカーの言っている通りといえば通りなのだが)ちょっと脱力してしまう.