Steven Pinkerによる投稿「The False Allure of Group Selection」に対する各方面からのコメント その2 

さてコメント欄にはグループ淘汰の守護聖人たるD. S. Wilsonや,名指しで批判されたとジョナサン・ハイトも登場する.


D. S. ウィルソン 「グループ淘汰の中心的問題」


ウィルソンはまずピンカーのエッセイはグループ淘汰の中心問題を明確にしていないと噛みついている.このウィルソンの言う「中心問題」とは要するに「グループ内で個体にとって不利だがグループにとって有利な形質はいかに進化するか?」ということで,お得意のこれに関する学説史を展開し,それは可能であり,マルチレベル淘汰というフレームで分析できると締めくくっている.
これはピンカーも当然わかっている話で,もう一度整理して述べるのはいいが,噛みつき方はいただけない.ピンカーは「グループ内で個体にとって不利だがグループにとって有利な形質はいかに進化するか?」をこのエッセイで問題にしているわけではない.グループ淘汰理論を使ってヒトの社会や本性を説明しようという人々がいかにスロッピーなのか,そしてその試みがいかに混乱を生んでいることを問題にしているのだ.


そしてウィルソンは,さらにピンカーがエッセイで挙げている問題は「グループ淘汰という概念は,遺伝子淘汰と比較できるような形で定式化できるか」だと位置づけ,ピンカーにとってはグループ淘汰はこういう形でしか意味を持ち得ないのかも知れないが,グループ淘汰自体はもっと古い独自の問題だと主張する.
そしてウィリアムズの「遺伝子視点のフレーム」はもともとは「遺伝子の平均的効果」に着目したものだったのであり,集団遺伝学を一般に紹介するための便法であり,それはある意味「帳簿つけ」なのだという.そしてピンカーはグループが遺伝子のようになり得るかと聞くときには彼はオレンジとアップルを比べているのだと批判している.


このあたりは突っ込みどころ満載だ.まず繰り返すが,ピンカーのエッセイのポイントはそこではない.「そもそも支持者たちはグループ淘汰理論を使って何を言っているのか,そしてヒトの性質を理解するにはそれは有用ではない」というところだ.
アップルとオレンジのくだりは,おそらくピンカーがサマリーのところで「グループ淘汰が何故表面的な魅力を持っているか」を説明する際に「まるで遺伝子淘汰と同じようにグループが淘汰にかかる」という表現を用いているからだろう.しかしこれはナイーブな論者の誤解を皮肉っているところであり,ピンカー自身がそう主張しているわけではない.
また「帳簿つけ」云々のところはおそらくウィルソンの「グループ淘汰こそ因果の実在の点から望ましい見方であり,遺伝子視点の見方は帳簿つけに過ぎない」というUnto Others以来の主張と言うことだろう.しかし(少なくとも生物学者に支持は少ないと思われる)この因果の実在に基づく哲学的議論をここで持ち出すのは筋悪だろう.


次に一部の論者が「遺伝子淘汰の見方が正しいことをもってグループ淘汰は否定される」と考える誤りに陥っているとコメントしている.そのようなことを主張しているのであれば,それは確かに誤りだ.しかしピンカーがそう言っているわけではない.ピンカーがグループ淘汰支持者たちの初歩的な誤りを指摘しているので,対抗上相手側陣営のミスは全部指摘しておこうということなのだろうか.


次にピンカーがグループ淘汰とは何ら関係のない文化進化についても批判的なコメントをしていることを取り上げ,文化進化も生じうるのだと主張している.ここも議論はすれ違っている.ピンカーは文化進化が(理論上)生じ得ないと言っているわけではない.文化を理解する上では文化進化の取り組みは有用ではない,そして実際の文化進化を用いる人たちの主張がスロッピーだと指摘しているだけだ.


さらにウィルソンは,「Nowakたちとピンカーは包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論が排他的であると考えている点で同じように間違っている」と批判している.
これは明白な誤解だろう.この点で間違っているのはNowakたちだけだ.ピンカーは理論的にあり得るとしてもそれを用いた主張の中身が問題だと指摘しているだけなのだから.


最後にウィルソンは文化進化に戻り,文化進化の明確なモデルは,グループ淘汰こそがヒトの文化の進化において(それが重要な文化的変遷であっても)重要な要因になっていることを示せるだろうと書いている.しかしそう断定しているだけで,その意味は明らかではない.


そしてピンカーに思いっきり皮肉られた「怪しい『善』の定義」については一言もコメントしていない.


というわけでここに現れたD. S. ウィルソンは(ドーキンスの主張に噛みついたときと異なり)「それ以外の時の主張は真っ当なのに,ことがグループ淘汰になったとたん,それを擁護する熱意のあまり偏狭で筋悪で誤解に満ちた論客になってしまう」といういつものウィルソンになってしまっていると評価せざるを得ないだろう.


次はピンカーに最近著「The Righteous Mind」の記述がスロッピーだと名指しで批判されたハイトだ.


ジョナサン・ハイト 「グループ淘汰を受けた性質を見たいなら,グループ間闘争時における『グループらしさ』に注目せよ」


ハイトは「魚が泳いでいるのを見たければ珊瑚礁に行けばいい,同じようにグループ淘汰を受けた性質が見たいならグループ間闘争をしているグループを観察するべきだ」と始めている.

これはピンカーが心理学実験における結果についてグループ淘汰産物とは考えるべきではないとしていることに反応しているものだ.そして問題の「コストをかけた利他的罰」については,確かにピンカーの言うような代替的説明も考慮すべきかも知れないが,グループ淘汰産物の候補がそれだけだという見解には反対だと主張する.


ハイトはそれ以外の候補としていくつか挙げている

  • 有名なサマーキャンプ実験における激しい競争心理(これらはメンバーにコストがかかるので利他的と考えるべきだとコメントがある)
  • 同じように自分の属するグループが攻撃されたときの反応(自分の所属をはっきりさせ,リーダーを助け,裏切り者に罰を与え,チームプレーヤーになる)
  • イスラエルとヘズボラが好戦状態になったときに,人々はチーターをより激しく罰し,協力者をより賞賛するようになった.

ハイトはこれらを「善」と考えるわけではないが,これらは血縁淘汰や互恵的利他では説明できないだろうと主張している.


これは私にはかなりナイーブな主張に見える.自分が属するグループが攻撃を受けたときに上記のように反応するのは「グループのためにより自分を犠牲にする」ためだけとは限らないだろう.それは個人の名声を高める効果もあるだろう,少なくとも周りがそう反応する世界において自分だけいつもと同じでは罰されるリスクを持つだろう.これはピンカーが指摘している「個人の受けるメリットを恣意的に除外して利他的だと定義する」態度そのものに近いだろう.ここはまさにピンカーの言う「グループ淘汰理論を振り回すことに夢中で代替仮説が思い浮かばなくなる」弊害の見本のような記述と評価すべきだろう.


ハイトはこの後ピンカーのコメントのいくつかに反論している.

  • ピンカーはグループ淘汰主義者たちが「グループが遺伝子と同じような淘汰を受ける」と考えていると書いているが,私を含むほとんどのマルチレベル淘汰理論支持者は「グループが『個人』と同じように淘汰を受ける」と考えている.(自分たちはそんなにナイーブでアホばかりではないということだろう.これはウィルソンの誤解した噛みつき方よりはるかにスマートだ)
  • ピンカーは自殺ボンバーの洗脳について「もしグループが本能的な忠誠を呼び覚ます基本的な認知的直覚(an elementary cognitive intuition)であるならこのような儀式は不要だろう」と書いている.しかしわれわれ社会心理学者は,グループは「基本的認知的直覚」だと考えるのだ.(ここはちょっとよくわからない.ピンカーの力点は「本能的に忠誠を呼び覚ます」というところにあるようなので議論がすれ違っているような印象だ)


ハイトは最後に,多くの社会心理,道徳心理は個人淘汰の産物だろう.しかし「集結,信頼,効果的な協調」などの心理的特徴を,特にグループ間競争時においてよく調べるなら,個体淘汰だけでは説明できない多くの行動や心理メカニズムを見つけることができるだろうと主張している.


この部分も私にはややナイーブに見える.もしハイトがナイーブグループ淘汰ではなく新しいグループ淘汰,マルチレベル淘汰理論を支持しているなら,グループがグループであるだけではグループ淘汰的形質は進化できないことを認めているはずだ.グループ間淘汰がグループ内淘汰を凌駕する条件を満たさなければならない,そしてそれは包括適応度を用いた個体淘汰と同じ結論になるはずなのだ.これらの記述はハイトが口ではマルチレベル淘汰といいながらナイーブグループ淘汰的であることを示しているように思われる.
もちろん好意的に解釈すれば,(個体淘汰的にも説明可能だが)グループ淘汰的に考えた方が理解しやすい現象という意味で「集結,信頼,効果的な協調」を提示しているのかも知れない.しかしそうだとしても先ほど見たようにハイトのフレームでは個人の利益が恣意的に除かれているだけのように思え,ピンカーの批判に答えたものにはなっていないように思う.
そしてこのようなハイトの反論はピンカーの最初のエッセイにおける批判がいかに的を射たものであるかをよく示している格好の例とも言えるだろう.