「脳はすすんでだまされたがる」

脳はすすんでだまされたがる  マジックが解き明かす錯覚の不思議

脳はすすんでだまされたがる マジックが解き明かす錯覚の不思議


本書は二人の視覚神経科学者とサイエンスライターの手によるヒトの認知に関する本だ.そしてこの本が特に面白いのは,手品の様々な技術が題材にされているところだ.
著者の二人はヒトの認知の研究者だが,認知科学者にはまだ知られていないことが,すでにマジシャンによって利用されているのではないかと考え,つてを頼ってマジシャンに教えを請うことにした.するとやはり長い歴史を持ち生活をかけて技術を磨いている彼等はヒトの認知のある側面の理解について駆け出しの認知科学者より遙かに先を行っていたのだ.


というわけで本書の記述は,いろいろな認知科学的な主題について手品の種明かしとともに説明していく形ですすむ.


最初は錯視.ヒトの視覚処理はコントラストを自動的に調整するし,強く光ったものは残像を与える.だから別の場所に照明が当たった舞台上で黒いビロードの前の黒いものは見えないし,きらっと光ったコインは,一瞬後には別の場所に動かされていても,なおそこで輝いていたように見えるのだ.また様々なカードの技も視覚的な錯覚をうまく利用したテクニックによっている.
またヒトの脳は見えないところを補正する.だから切れたロープはうまく持つとつながって見え,女性は箱の中で切断されたように見える.そして上手に行うと投げていないはずのコインが空中に見えるのだ.


同じような錯覚は視覚だけではない.手首を強く握られた後には残感覚が残るので,マジシャンに自分の時計をはずされても気づきにくい.
そして網膜が視野中心部でしか細部がわからないのと同じで,ヒトの知覚は注意が向いていないところでは著しく弱くなる.(有名なバスケットコートのゴリラ実験も紹介されている)マジシャンはこれを巧みに利用する.この技は広く「ミスディレクション」と呼ばれる.彼等は言葉,身振り,視線,舞台装置を使って巧妙に観客の注意をある点に集中させ,そして別の場所でトリックを仕込むのだ.(観客はそれがはっきり見えていても気づかない.まさにゴリラ実験の示すとおりだ)
これを応用すると,マジシャンはまずある手品を披露し,次にその種を教え,もう一度そこに注意させながら別の方法で手品をして驚かすという技が生まれる.


マジシャンはヒトの記憶が様々なことに影響されやすいことも利用する.ボランティアを巧みに誘導しておいて,後でそのカードは全くの自分の自由意志で選んだと思わせるのはごく初歩だ.上手なマジシャンは観客全員に偽の記憶を植え付けることもできる.
逆に様々な記憶術を使ってカードの順番を正確に覚えることによる手品もある.


またヒトの選択の際の癖をよく知ることによってマジシャンはボランティアの選択に「フォースをかける(マジシャンの思い通りに選択させること)」こともできる.ある本の中から一つ単語を選ばせるというマジックでは,本のどのページにするか(最初の方や最後の方は選ばない,ぱらぱらするスピードをわずかに変えて単語が目に留まるようにするとそこを選ぶ),その中のどの単語にするか(少し意味深そうな単語が選ばれる)などを利用し,選択を変えるように促す言い訳を何種類か用意することによりかなりの程度操作できる.またほとんどの観客はDで始まる国名といわれると,ドミニカではなくデンマークしか頭に浮かばないのだ.


手品の種明かしという点では,これは認知科学とはあまり深い関連はないのだろうが,観客がとてもそこまでは思いつかないようなところまで用意周到に種を仕込むという技術も紹介されていて大変面白かった.


また著者たちはマジシャンだけでなく霊能者の世界にも潜り込む.霊能者は,上手に質問を紛れ込ませ,客が聞きたいことにひたすら話題をあわせるという技で大金を巻き上げているのだ.彼等はマジシャンと異なり(種があるとするのではなくそれが真実だと言い張るという点で)詐欺師であるので著者たちの書き方も手厳しくなっている.


最後に著者たちは自分たちがマジシャンとしてオーディションを受ける話をしながら本書全般のおさらいをしている.そして,手品のテクニックはひたすら練習によってしか得られないものであることを説き,種がわかれば,さらにそのテクニックに対する畏敬の念が生まれ,より楽しめると強調して本書を終えている.


本書はそういうわけで認知科学のテーマを扱った本ではあるのだが,紹介されている認知科学的知見自体はそれほど深いものではない.また手品の種明かしも今日では少しググればほとんど出てくるものばかりだろう.しかし,本書は読んでいて大変楽しい.それは(私が知らなかった種明かしが少しあったこともあるのだろうが)著者たちの手品に対する愛とマジシャンたちに対する感謝と尊敬の念があふれているからなのだろう.



関連書籍


原書

Sleights of Mind: What the Neuroscience of Magic Reveals About Our Everyday Deceptions

Sleights of Mind: What the Neuroscience of Magic Reveals About Our Everyday Deceptions

  • 作者: Stephen L. Macknik,Susana Martinez-Conde,Sandra Blakeslee
  • 出版社/メーカー: Henry Holt & Co
  • 発売日: 2010/11/09
  • メディア: ハードカバー
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