「The Better Angels of Our Nature」 第7章 権利革命 その5  

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined


子供への暴力減少.嬰児殺の次は体罰だ.


体罰の歴史>
ピンカーは,「狩猟採集民の子供への体罰はややマイルドだったかもしれない.しかし他のすべての社会は過去子供への厳しい体罰を実践してきた」と語り,過去の歴史における体罰の例をあげている.


体罰はある意味「当たり前」だった.

  • 学校での鞭打ちは日常茶飯事だった
  • 子供は刑法で処罰対象だった(18世紀英国で7歳の子が盗みで死罪になった例)
  • ドイツではストーブに押し当て,ベッドにつないだ.
  • そしてこれは西洋だけではない.古代エジプトからギリシア,ローマ,中国,アステカでも同じだ.
  • 日本の例:灸,浣腸,逆さに吊るすなど


心理的な拷問もあった

  • 子供への直接的な脅し:捨てる,継母がやってきていじめる,怪物がくるなど
  • 子守唄(英国:ナポレオンがきてお前を引き裂く)
  • 物語:グリム童話のテンプレート:継母に殺されて父親の食事になる


確かにわずか30〜40年前には日本にも子供への体罰はあふれていた.浣腸や逆さ吊しは見たことがないが,親が子にお灸をすえるのも学校教師による児童生徒への張り手もごく当たり前だった.ここ30年で事情は随分変わった.これは私の個人的な感覚だが,現在の私にとって「なまはげ」の映像(特に泣き叫ぶ子供を見て笑っている廻りの大人たち)はもはや正視しがたく感じられる.



<なぜ親は子を苦しめるのか?>
ピンカーによる体罰の進化的な説明はトリヴァースの親子コンフリクト理論によっている.

  • ナイーブな進化的考察では,親はすべての愛情を注ぎ,子は親に従順に従うはずだとかんがえるかもしれない.しかし進化はそのようには働かない.
  • 親による兄弟間の(将来的な兄弟も含む)世話の配分と子による要求は必ずずれる.
  • そして親による社会化要求と子による配分要求はアームレースになる.だから子育ては常にバトルになるのだ.


体罰減少の歴史>
そして過去はそれが鞭になったり張り手になったりすることは文化的にも許容されていたということなのだろう.では何故現在それは急速に減っているのか.ピンカーは「人道主義」の影響が大きかったとし,丁寧に説明している.

  • 人道主義が広まる前のキリスト教に覆われたヨーロッパでは,キリスト教は生得的な堕落,原罪という概念で「子供は本来悪魔的だ」という概念を強化した.すると,叩いて悪魔を追い出すという行為が正当化される.また子がどう育つかは親の扱いとは関係ないという運命主義も残酷な扱いを問題視しない傾向を後押しした.
  • 最初のパラダイムの転換は,ロックとルソーから始まった.彼等は「人間は白紙で生まれ,教育が人を作る」と考え,子供の視点に立った教え,自然と相互作用する教育を重要視したのだ.これらは19世紀後半から影響を与え始める.
  • そして「子供は聖なるものだ」という概念が生まれ,英国では児童保護の流れが生じる.(なお詳細を見ると動物愛護運動が児童福祉の原動力になった事例がニューヨークや英国でみられるそうだ)
  • この流れは二十世紀を通じて続き,1946年のスポック博士の育児書(今日的に見るといろいろ問題もあるが,鞭打ちの否定は大きな影響を与えた.ピンカーはベビーブーマーの親が優しいのはこのためだといっている)を経由して,1980年代には人々は子供が残酷に取り扱われるのに耐えられなくなった.
  • 教育界も体罰を否定するようになり(ピンカーは彼等の理由付けの一部は怪しいともコメントしている),実際に体罰は減っていった(アメリカ,ドイツ,スウェーデンのデータが挙げられている).
  • 現在先進国では一般に子供を叩かない(例外,シンガポール,台湾,香港).ただし地域差は残っているそうだ.(アメリカ:南部>北部,アフリカ系アジア系>ヨーロッパ系)


体罰の違法化も進みつつある.1979年のスウェーデンの立法から始まり現在24カ国にあるそうだ.
ピンカーによる体罰の違法化のコメントは以下の通り.

  • これは何千年も続けてきたことの転換
  • 片方で国家による家庭への干渉現象の一つ(義務教育,ワクチン接種,虐待児童の救出,救命医療についての親の拒否の無視,女子割礼の禁止(ヨーロッパにおけるイスラムコミュニティ))であり,見方によっては全体主義的国家によるプライバシーの侵害にも見える
  • しかしもう一つの見方では,これは身体の自己決定権の尊重という歴史の流れ.「子供も人であり,命や身体への権利も持つ,それは親の所有権という理屈で侵害されるべきではない.」


アメリカの状況
なお家庭での体罰を禁止する立法がなされた州はないそうだ.しかし学校による体罰の禁止は進んでいる.一般に子供への体罰を許容する傾向の高い南部諸州においても学校の体罰を支持する割合は低い.
家庭での体罰はどうか.なお過半は家庭での体罰を支持するが,マイルドな体罰と虐待は区別する傾向が生じており,平手によるもの以外は虐待という認識が広がっているそうだ.


日本における認識はヨーロッパのそれよりはアメリカに近いかもしれない.一般に家庭内の体罰については容認的で,ようやく親による子供の虐待についても行政が介入すべきだという認識が広まってきたあたりで,なお十数年遅れというところだろうか.
学校での教師による張り手は現在では不祥事ということになるだろう.廊下で立たせるというのはちょっと前まではあったが現在ではかなり減っているような気がするがどうだろうか.人々の認識上の家庭での体罰と虐待の境界はアメリカよりは緩いかもしれない(軽いゲンコツはOKという感じではないだろうか,).


体罰減少の要因>
ピンカーはフィンラーとジョーンズのリサーチを引用している

  1. 要因性なし:人口動態,死刑,収監数,ドラッグ,銃,中絶
  2. 少しあり:90年代については経済繁栄,しかし2000年代についてはない
  3. 要因性あり:警察活動

フィンラーとジョーンズは最後にプロザックリタリン,90年代の文化規範の変化を要因として示唆しているそうだ.
前者は親の鬱抑制が体罰減少に効いているという主張だが,ちょっと怪しい感じだ.後者は何が文化規範を変えたのかを説明しなければ説明できたことにはならないだろう.
ピンカーとしては体罰減少も権利革命の1つであり,要因については最後にまとめて議論するという趣旨のようだ.


子供への暴力減少については,最後に他の子供からの暴力,いじめの問題も取り上げている.


<いじめ>


ピンカーはそれは昔からあったとコメントして,バック・トゥ・ザ・フューチャーのビフをあげている.確かにアメリカの学園ものテレビドラマを見るといじめは定番だ.日本でいえばドラえもんジャイアンというところだろう.
最近まで大人はこれを子供期の一つの試練として問題視してこなかった.いじめられっ子は,親や教師に泣きつくとさらに軽蔑されていじめられるので逃げ場はなかった.


しかしこれも排斥されるようになってきた.ピンカーはこれも暴力減少傾向の1つだとしている.
アメリカでは1999年のコロンビアハイスクールでの銃乱射事件がきっかけになったそうだ.この原因の1つがいじめだとされ,いじめ撲滅が全米のキャンペーンになった.44州で学校でのいじめは違法とされ,多くの学校で「いじめの否定と共感の重視,対処法」がカリキュラムに取り入れられ,マスメディアから大統領までもがキャンペーンに乗ったのだ.
日本では痛ましい自殺事件がきっかけになるというのがちょっと異なっているが.全般的な事情は日本とよく似ている,


ピンカーはいじめに関しては「おそらくあと何十年かすると,漫画でのいじめの描写は体罰の描写のように受け入れがたいものになるだろう.」とコメントしている.キャンペーンの心理的理由付け(鬱リスクなど)はともかく,モラル的な理由は鉄壁なのだ.「子供であるからといって理由のない暴力(カツアゲ,もの隠し,セクハラ)が許されるはずはない」


<子供への暴力排斥傾向の行きすぎ>


ここでピンカーは,このほかの暴力減少では取り上げてこなかった「行きすぎ」問題についてコメントしている.これは冒頭のドッジボール禁止が絡むところだ.ピンカーは問題と思われるところを2つあげている.


1.Nurture仮定

  • 親は子供をいかようにもでき,だから全責任があるのだという,事実と反する(子供はピアグループ,遺伝,偶然の影響を大きく受ける)考え方が広まっている.
  • プロの中では主流で母親たちは影響されてしまっている.


このあたりは「The Blank Slate」の著者としても指摘しておきたいところなのだろう.


2.子供への暴力を少しでも匂わすものへのゼロトーラレンス


ピンカーはその具体例をいくつもあげている.

  • カフェテリアの喧嘩に警察が出動し手錠をかけて連行
  • キャンプ用品,工作ナイフもNG
  • 映画などの描写:ET 21世紀版では警察が持っていたライフルが通信機になっている.
  • ハロウィーンの衣装:バンパイヤ,ゾンビなどの忌避.隣のうちが墓石を飾ればヘイトクライムとして警察に通報
  • 遊具への規制:ジャングルジムは腰の高さに,シーソーの撤去
  • セサミストリートの初期版について子供には不適のステッカーが貼られる.:ジャングルジム,ヘルメットなしの三輪車,見知らぬ人からクッキーをもらう,クッキーモンスターの持つパイプ


ピンカーがこの中で特にとりあげているのは誘拐へのゼロトーラレンスだ.

1979年のマンハッタンの事件がきっかけ全米がパニックになり,キャンペーンが張られ,政治家,警察,企業がのった.この結果アメリカの子供期は変わってしまった.

  • 今日のアメリカの親は片時も子供から目を離すことができない.
  • 車での送り迎えをし,遊びの場所と相手をセッティングする.
  • 徒歩自転車の通学:40年前は2/3,現在は10%
  • 戸外での遊び:1世代前は70%,現在は30%

子供が強硬に主張するので地下鉄に一人で乗ることを許し,無事に帰ってきたことをコラムで書くと全米が論争に.このコラムニストは,今や「子供を戸外で遊ばせよう運動」を主導しているそうだ.


ピンカーはこのゼロトーラレンスはリスクとコストのバランスを無視していると指摘している.

  • 牛乳パックの顔写真の大半はティーンエイジャーの家出と離婚の片親によるものだ.見知らぬ人から誘拐されて殺されるのは年間50人にすぎない.これは交通事故の1/40,溺れる事故の1/20のリスクにすぎないのだ.
  • 命がかかっているのだからどんなコストでも正当化されるという意見は馬鹿げている.彼らはトレードオフがわかっていないのだ.命という点を考えただけでも,送り迎えによる交通事故,誘拐時の名前のサインに気を取られて交通事故が起こるなどなどのコストが無視されている.さらに,子供期の経験が失われること,肥満などのコストもあるだろう.


確かにアメリカでは子供から目を離すことが日本とは全く違った重みを持って受け止められている.感覚的には日本での幼稚園児に対する感覚がアメリカでは小学生まで広いというところだろうか.とりあえず日本では今のところ,アメリカほどの誘拐へのゼロトーラレンスはないようだ.


ピンカーは子供への暴力減少傾向については「ここ200年で子供価値の評価の上昇は大きなモラルの前進をもたらした.しかし最近20年の行きすぎには馬鹿げているものもあるのだ.」と最後にコメントしている.