The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking
- 発売日: 2011/10/04
- メディア: ハードカバー
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ピンカーによるより善き天使.ここまでは共感と自制を扱ってきた.ここで「暴力減少という時間的な変化はヒトの生物学的進化によるものか」という問題を取り扱っている.このような短期で生じたとは考えにくいところだが,きちんと議論しておこうということだろう.
III. 進化による暴力減少はあったのか?
実際に「平和化,文明化を通じて遺伝的進化はあったのか?」という質問はピンカーに対してよく投げかけられるのだそうだ.
- 確かに平和化した社会では同情や自制自体が有利になりうるのでそれらの遺伝的要素は増え,サイコパスは減りそうな気もする.実際一夫多妻から一夫一妻になるだけで暴力傾向の有利不利は大きく変わるだろう.
- 一方で本書は進化心理学の標準的な前提「ヒトの本性はここ1万年間に変化はなかった」に従って書かれている.1万年という期間は非常に短いし,実際に観察されるヒトの心は基本的に言語能力から感情までユニバーサルだからこの前提はある意味もっともなものだ.とはいえこれはあくまで前提であり,本当に進化が生じるかどうかは状況に依存するだろう
ではDNAのリサーチではどのようなことがわかっているだろうか.
- Akeyによる2009年のリサーチでは「ヒトのDNA,全体の8%の領域で,強い淘汰を受けている.そして神経に関する遺伝子も多く含まれている.そしてそのパターンは集団によって異なっている.」とされている.
- 進化心理学を敵視するジャーナリストの中には,これをもって進化心理学への論破になると(誤解も甚だしく)歓迎しているものもいる.しかしこれは進行中の淘汰があるということであり,はるかにラディカルな進化心理学に道を開くものだ.そして文明化の歴史が浅い集団はより野蛮だという偏見につながりかねない.
- もちろん政治的に正しくないからそれは事実になり得ないわけではない.しかし証拠は非常に慎重に吟味されるべきということになるだろう.
なかなか理解の浅いリベラルの進化心理学嫌いというのは厄介なものだ.ここからピンカーは議論を積み重ねていく.
《行動遺伝学的知見》
- 様々なリサーチがあり,一部有名になって批判されたもの(オランダの実子養子比較,犯罪性において差が出たが,暴力性犯罪ではデータ数が少なく有意にならなかった)もあるが,全体としてはロバストな結果がでている.
- それらによると反社会性パーソナリティや暴力的傾向の遺伝率は0.4〜0.7程度認められる.メタアナリシスでは攻撃性に0.44,犯罪性に0.75(うち相加性が0.33)というものがある.
- 具体的な数値より,様々なリサーチで一貫して十分大きな数字であることが重要だ.つまり「暴力傾向には遺伝性があり,自然淘汰にかかりうる」のだ.
《自然淘汰がかかる形質の候補》
- 自己家畜化とネオテニー:家畜化されるとおとなしい方向に淘汰がかかりネオテニー傾向が現れることが多い.ランガムは「ヒトもここ3,4万年同じような進化が生じた」と主張している
- 脳の構造:灰白質の分布,その回路には遺伝性がある
- オキシトシンレセプターの数と分布:一夫多妻の攻撃性のあるmeadow voleにオキシトシンレセプターの遺伝子を導入するとおとなしく一夫一妻的になったというリサーチがある.
- テストステロンレセプター:これもレセプターによって行動が影響される
- ニューロトランスミッター:ドーパミン,セロトニン,ノレピネフィリンなどにかかる調節遺伝子がある.またモノアミンオキシターゼ-A(MOA-A)遺伝子で活性の高低が決まる.低い活性だと幼少時の強いストレスで反社会性になりやすい.つまり高い活性遺伝子は暴力を抑える.そしてゲノミクスからはこの遺伝子領域に淘汰がかかったことが示されている.ただし,なお両方のタイプの遺伝子があるし,淘汰方向がどっちだったかもわからない.この他にもドーパミンに関連する遺伝子がいくつか見つかっている.
だから暴力傾向に淘汰がかかれば進化が生じうる.では本当に平和化,文明化プロセスの時にそれはかかったのか?
《歴史的証拠》
- 歴史には他のグループが野蛮だという記述が多いが,信用はできない.
- オーストラリアには1788年〜1868年にかけて英国から犯罪人が送られたが,現在そこの殺人率は英国より低いし,世界でも最高に平和な国の一つだ.
- ドイツは1945年まで世界で最高の軍事国家とされていたが,現在では最も平和志向の高い国の一つだ.
《進化があったと主張するリサーチ》
まずコクランとハーペンディングが最近の進化についていろいろと主張しているが,実際に取り上げているのは,消化,耐病性,皮膚の色などだ.だから行動の進化について取り上げるべき主張は以下の2つだけだ.*1
(1)ロッド・リーのマオリについての主張
- マオリは冒険的な航海でニュージーランドにたどり着き,その後最も激しい部族闘争を続けてきた.
- MOA-Aと暴力傾向には相関がある.
- そしてMOA-Aの低活性タイプの頻度が70%と欧州の40%に比べて高い.リーはこれを適応だと主張した.
しかしこれは受け入れがたい.
- ボトルネックの可能性がある
- 中国はさらに比率が高くて77%だが特に攻撃的ではない
- 欧州以外ではMOA-Aと暴力に相関が見られない(おそらく別のメカニズムが効いて東アジアではこのMOA-Aだけでは決まらなくなっているのだろう)
(2)グレゴリー・クラークの産業革命が何故英国で生じたか(生産性向上が人口増で飲み込まれなかったのは歴史上この時のみ)の説明
- 1250年以降英国では富裕層の方が子が多いという状況が続いた.そして貴族は争いにより子が少なくブルジョワの子がより多かったという状況が続いた
- これが倹約,質実,ハードワーク,自制,非暴力を文化的,そして遺伝的に強めたのだ.
しかしこの説は経済成長を説明しようとする他の考え方に比べて弱い
- 英国だけでなくほとんどの社会で金持ちの方が子が多い
- 貴族は確かに嫡出子は少なかったかもしれないが,私生児を入れるとそうではない
- 多くの社会で体制の変化と共に急速な経済成長が生じる例が観察されている.戦後の日本,最近の中国など
- クラークは,英国民が自制や非暴力の点で他国と異なることを示していない
ピンカーはこれらを「結局進化は生じたかもしれないが証拠はない」ということだとまとめている.
さらに進化が生じているとは考えられない多くの暴力減少現象があることを指摘する.
そして急速に進んだので,遺伝的な変化はなかっただろうと思われる暴力減少の証拠がある.
人道主義革命,権利革命,長い平和,新しい平和は遺伝的な進化が生じるには急速に進みすぎている.例えば,1990年代の米国の犯罪率低下は急速で世代内に起きているのだ.
そして平和化,文明化も含めて,遺伝的進化なしにすべて説明できる.つまり進化は仮説として不要なのだ.
確かに平和化プロセス,文明化プロセスは数百年以上かかっているので,その間に遺伝的な変化が生じた可能性は排除できないだろう.しかし現在のユニバーサルを考えるとそれはあったとしてもわずかであり,そもそもそれほど真剣に検討する必要はないということだろう.本節は進化心理学嫌い,あるいは進化ということがわかっていないリベラル向けの解説ということだろうか.