「クモはなぜ糸を作るのか?」

クモはなぜ糸をつくるのか?

クモはなぜ糸をつくるのか?



本書はクモ学者キャサリン・クレイグが,サイエンスライターレスリー・ブルネッタと組んで手がけたクモの進化生物学に関する一般向けの啓蒙書だ.原題は「Spider Silk: Evolution and 400 Million Years of Spinning, Waiting, and Mating」.


構成としては,クモの進化史を縦糸に,関連する進化学のテーマを横糸に織り込んで組み上げられている.


序章においてクモが概説される.そして特にクモの糸がクモの進化生態の上でも,それを分析するツールとしても大変に有用であることが強調されている.クモは,昆虫にこそかなわないが,非常に広い環境に適応でき,世界に4万種以上生息している.そして一生を通じて糸を作れるという点で動物界において独特で,糸を紡げるようになったとき,さらに別の種類の糸を紡げるようになったときそれぞれ大きく適応放散を遂げている.そしてその糸はタンパク質でできているためにDNAを通じた分析の対象として優れているのだ.


第1章,第2章はクモの起源について.
節足動物の陸上への進出は4億5千万年前頃から始まる.節足動物門の中の鋏角亜門,クモ形綱,クモ目あたりの解説の後,クモ形綱の中でもっともクモに近縁のワレイタムシが紹介される.これは体節構造や外観がクモによく似ているが糸を作らない.4億年前から2億5千万年前まで生息していたようだ.
これまで,最古のクモは3億8千万年前のAttercopus類で化石に出糸突起が認められるとされてきた.しかし最近の研究ではそれは真正の出糸突起ではなく,真のクモではなかったということになったようだ.
そして現在最古のクモの化石は2億9千万年前のハラフシグモ類のものになる.彼らは現在ほとんど姿を変えずに生息していて,湿った土の中に巣穴を持ち近くにきた小さな節足動物などを捕食する.糸は巣内の裏張りと巣穴のドアの蝶番,そして卵の保護に使われる.


第3章は自然淘汰の説明.ここではこの理論を常に「ダーウィンとウォレス」の説と呼んでいて,著者のこだわりが見える.ダーウィン以降の理論的進展に簡単に触れた後*1,例としてハラフシグモ類の種分化を説明している.


第4章はハラフシグモ類(との共通祖先)から進化したトタテグモ類.この中には有名なタランチュラが含まれる.最古の化石はペルム期末の大絶滅(2億5千万年前)後の2億4千万年前のもので,解剖的には排気管出糸突起が特徴になる.生態的には巣穴の外に糸を利用した餌感知器を構築することができるようになったのがポイントになる.ここでは穴の周りをちょっと高くするカラー,高く盛り上げる小塔,さらに大きな嚢状の巣(ジグモはその袋の裏側に潜み,袋越しに餌を捕らえる)や漏斗状の巣(タランチュラの巣はこの形式だそうだ)などが写真で紹介されていて読んでいて楽しいところだ.


第5章はtrue spider, フツウクモ(クモ下目)類の進化.彼らは非常に強靭な糸を進化させた.これは専門的には大瓶状腺糸と呼ばれる.これにより彼等は巣穴を離れたところに遠征し捕食されそうになったときに,糸を繰り出して垂直に下に逃げる(そして危機が去ったときに元に戻る)ことが可能になった.
この類の最古の形態を現在に伝えるクモはエボシグモ類で,大瓶状腺糸の周りに別の種類の羊毛状篩板糸をまとわせランプの傘のような網を張る.そして鋏角が横に開き獲物を突き刺して運べるようになった.
次にクモは,大瓶状腺糸を使った,糸を横に流して何かにくっつけてから渡るという横や斜めの移動方式を開発した.さらに子グモは空に流して風と共に飛ぶ事ができるようになった.これはバルーニングと呼ばれる.社会性のクモでは大人のクモもバルーニングする*2ことが発見されている.


第6章は分子進化.遺伝子重複や転写ミスなどが説明され,クモの糸のタンパク質の進化が解説されている.どのようなアミノ酸の並びによって糸の強靭さと柔軟性が生まれるのかというマニアックな至近的メカニズムの解説もあってなかなか面白い.反復配列が畳まれた層がどう横滑りするのかにどう影響するのかあたりが鍵になるようだ.


第7章は円網を作らないフツウクモ類.
フツウクモ類はクモ全体4万種のうち3万8千種を占める.そのうち2万7千種は円網を作らないそうだ.ここではその様々な生態が順番に解説されていく.シート状やくしゃくしゃの網を張るクモたち,空気タンクを作るミズグモ類,網を作らず運動補助*3にのみ用いるハエトリグモ類(その中のケアシハエトリは振動で獲物を擬態し,捕食しようと寄ってきた他のハエトリクモを捕食する),徘徊して餌をとるワシグモ類,コモリグモ類,砂丘の斜面を転がるシャリングモ類,花に擬態して送粉昆虫を狙うカニグモ類などが次々に解説されていて読んでいて大変楽しいところだ.特にケアシハエトリやコモリグモについては詳しい.


第8章は円網を張るクモ類.
円網は,枠組みとスポークという構造,垂直性,螺旋の粘着糸という驚嘆すべき特徴を併せ持つ適応産物だ.このような進化について著者は様々な角度から熱心に語っている.ここは本書の中でも力の入った章になっている.


第9章ではさらにその円網の鍵になる粘着性の糸のタンパク質進化について解説した後,遺伝学について触れている.ここではエヴォデヴォに話が進み,祖先形の節足動物からの体制の進化を説明している.


第10章は円網の進化生態学.円網は時に目に見える.またコガネグモの円網には飾りがついていることもある.これはなぜなのだろうか.
著者は網は単にステルスになっていればいいのではなくて,より積極的に昆虫をだまして飛び込ませるようになっているのだと解説する.昆虫の複眼における視力では,紫外線の斑点は葉や枝の背後に空があることを意味し,メダマグモ類の紫外線をきらきら反射する円網には昆虫への誘因効果があるのだ.
しかしコガネグモ類の円網の糸は逆に紫外線をそこまでは反射しない.そしてそれをよく調べると様々なだまし戦略を説明することができる.半透明になっている網は,そよ風にそよいで緩く反射する領域が変化し,昆虫による網の認知を阻害する.またミツバチへの誘因効果がある輝きを擬態している網もあるそうだ.コガネグモの一種であるジョロウグモの網は黄色味がかっていて,その背景の葉に近づく昆虫にとっては見えない.また黄色の花を目指す昆虫にとっては,黄色の網が見えてもそれを避けることを学習することは困難になる.
ある種のコガネグモが網に記す飾り帯は何か?これは太陽に向かって飛ぶ習性のある昆虫や白い花を目指す昆虫にとっては誘因効果があるのだ.
なんだか都合のよすぎる説明に聞こえなくもないが,それぞれの知見には実験などの裏付けがある.この章はなかなか興味深い記述にあふれていて本書の読みどころとなっている.


第11章は円網をさらに変化させたクモについて
一般に円網は完璧に感じられる.しかし進化的にはそれはある種の環境に対する特殊解にすぎない.だから別の環境に対しては網を作らなくなったり,人間の目にはブザマに映る別の網形態になることがある.ここでは前者の例としてナゲナワグモ,後者の例としてシート網を作るサラグモ類,立体網を作るヒメグモ類*4を取り上げている.この立体網は垂糸と呼ばれる糸が下に向かって延びており,それに昆虫が触れると上に跳ね上げられ,上部の粘着性の網にかかるそうだ.このあたりもなかなか興味深い.


最終章はまとめになっており,クモがこれまで様々な進化を経てきたことが強調されている.


本書はクモの進化史を手際よくまとめ,さらに興味深い進化生態を解説することに成功しており,充実した仕上がりの本と評価できる.一部分子や解剖学的な詳細にこだわっているところもあるが,全体として一般向けに読みやすく仕上がっている.通読すると糸に絡む新規ニッチができるごとに適応放散が生じていることがよくわかるし,円網の進化とその獲物との騙し合いのアームレースの部分は大変読み応えがある.糸タンパクに絡んで系統地理的な話題がなかったのがちょっと残念だったが,クモに興味のある人にはお勧めできる一冊だ.



関連書籍


原書

Spider Silk: Evolution and 400 Million Years of Spinning, Waiting, Snagging, and Mating

Spider Silk: Evolution and 400 Million Years of Spinning, Waiting, Snagging, and Mating




 

*1:ここで集団遺伝学による現代的総合の年代について,「ダーウィンの死後数十年経った1882年に出た」と誤訳されていて残念だ.原文はおそらく「ダーウィンの死の1882年から数十年経過して集団遺伝学が確立された」という趣旨だろう.

*2:糸を多数出して扇形に広げるそうだ.社会性で分散というわけだから包括適応度理論でモデリングしたらいかにも面白そうだ.

*3:空中に飛び出した後のブレーキや方向転換に使うそうだ

*4:この中に猛毒で有名なゴケグモ類が含まれるそうだ.