「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第3章  「性比理論,ダーウィン,それ以前,そしてそれ以後」 その1 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ソーバーは「種の起源」の構成,ダーウィンとグループ淘汰を扱った後第3章では性比を取り上げている.
冒頭では性比の議論が持つ哲学的なおもしろさが説明されている.ソーバーによると,この議論は,まず確率的な思考が現れた議論の嚆矢になっているところに特徴があり,さらに,多くの適応の議論が直感的に当たり前のような議論であるのに比べて,性比を適応で説明するのが直感的には難しいことをあげている.

後者は要するにこれはある戦略の適応度が集団の他個体の戦略に依存し決まる状態であるから,つまり頻度依存戦略とESSが問題になるからだということだろう.何故かソーバーはそのような説明は行っていない.実際性比に限らず頻度依存になるような状況では,様々な問題についてESSは直感的に自明でないことが多いだろう.


アーバスノットの男女の比率のバランスについての議論,「種は失敗せず,滅びもしない」>


最初に取り上げられるのは,ダーウィン以前の論争だ.
ソーバーは,神の実在についての議論は17世紀末から18世紀に入って確率論の様相を帯びてきたと述べている.それまでの議論(例えばトマス・アキナスのもの)は「目的があるように見えるものの存在はデザイナーを『必要とする』」というような議論だったが,17世紀末以降,そこから「必要性」を落とした議論が見られるようになる.
つまり,目的を持つように見えるシステムは,「偶然の結果」かもしれないし,「デザイナーのデザイン」の結果かもしれない.どちらの仮説がよりもっともらしいかという議論が現れてきたのだ.

そしてこの文脈でジョン・アーバスノットの1710年の議論が紹介される.アーバスノットはアン女王時代の医者で,皮肉屋で知られ,(典型的なイングランド人を表す)「ジョン・ブル」のキャラクター創案者でもある.彼は(1629年から1710年までの82年間の教会の洗礼時の記録*1を元にした)ヒトの性比データを使って「神の存在」を証明しようとした.ヒトの出生時性比は男子に傾いていることが知られているが,このデータも82年連続男子洗礼記録の方が多くなっている.彼の議論は以下のようなものだ.

もし男女が確率1/2で偶然に生まれるのであれば,82年間連続して男の子の方が多く生まれる確率は非常に小さい(0.5^82)*2.このことから,これは偶然にそうなっているのではなく,(男の子の方が死亡率が高いので)成年時に性比を1:1にするために神が仕組んだことだと考えるべきだ.そしてこれは神が一夫多妻を正しいとしているということを意味する.一夫多妻は自然の法則,正義,人類の種族繁栄に反する.


ここからソーバーによるこの議論の解釈が始まる.この部分は前著の解釈「進化と証拠」にもかかるところでちょっと面白い.

このアーバスノットの議論はフィッシャーの有意性検定と同じ構造だと指摘されることがある.確かに男女が1/2であるという仮説を帰無仮説とするならこれはフィッシャー的だ.
しかしこれは尤度主義的だと解釈することもできる.82年間の男子洗礼数優越という観察事実は「1/2偶然仮説」と「神の実在仮説」のどちらを支持しているかをみているともとれるだろう.
当時このような区別はなかったのでこれはある意味答えられない問題だ.しかし私は後者をとりたいと感じている.

ここでソーバーはフィッシャーの有意性検定の論理的構造である「確率的Modus Tollens」の問題点を解説している.基本的に前著で述べているのと同じで,独立的な観察が多数回なされると,それがどんなに仮説を支持している内容でもすべてその通りに生じる可能性はきわめて小さくなってしまいどんな検証も不可能になるという問題,そして二つの対立仮説がある場合,ある観察事実が尤度的にそのうち片方を強く支持していても,単に帰無仮説との比較で検定すると支持されているように見える仮説を棄却してしまう可能性があるという問題だ.このあたりはソーバーの持論をこのエッセイでも繰り返しているということだろう.

ソーバーはさらにベイズ主義もここで解説している.ベイズの論文が刊行されるのはアーバスノットの議論の50年後になる.ベイズ的に見ると,アーバスノットの議論はP(H|O)にかかるもので,P(O|H)を扱っていない.だから観察事実が神仮説か偶然仮説かのどちらをより支持しているかは示していても,神仮説のもっともらしさ自体については基礎付けできていないことになる.それはP(O|H)を決めなければならず,そのためには神仮説と偶然仮説の事前確率が必要になるのだ.

ソーバーはここでちょっと視点を変えてアーバスノットの議論の歴史的文脈についてもコメントしている.彼の仮想論敵は(もちろんダーウィン主義者ではなく)エピクロス主義者だというのだ.ここではこれは快楽主義のことではなく,「宇宙が現在こうなっているのはすべて偶然の所作による」と考える立場を指している.つまり「世界が今こうなっているのは神の所業の結果であるとは限らない.単に偶然そうなっているだけだ」という考え方に対して「神の実在」を議論しているということになる.だから確率論が必要になり,「猿がタイプライターをたたいてシェイクスピアを完成させるのは宇宙開闢以来やっても望みがないことだ」というたぐいの議論が必要になったのだというわけだ.
ソーバーはここでは指摘していないが,一部の想像論者は自然淘汰についても同様に反論できると誤解していることになるだろう.


<ベルヌーイの18/35>

次の登場者はニコラウス・ベルヌーイだ.ベルヌーイ一族には何人も著名な数学者がいて(さらにその複数がニコラウスを名乗っていて)ややこしいが,ヨハン・ベルヌーイの息子のニコラウス2世ということのようだ.
ベルヌーイは1713年に「アーバスノットの議論では偶然仮説を棄却できない」という論陣を張った.ベルヌーイの議論は以下のようになる.

偶然仮説には1/2仮説以外も含まれる.もし産まれる子が18/35の確率で男子になるとして,個別のケースでは偶然決まるとすると,アーバスノットの示したデータによる性比の範囲が達成される確率は300/301になる.だからアーバスノットが示したデータは,神仮説を何ら証明できていない.*3

ソーバーはおそらくベルヌーイはアーバスノットの主張をフィッシャー的に解釈しているのだろうとコメントしている.だから確率値を変えれば,帰無仮説は棄却できないはずだと主張しているのだ.
そしてさらに,見方を変えればベルヌーイの主張を尤度主義的に解釈もできるともしている.無理矢理そう見ると,ベルヌーイは1/2仮説と18/35仮説を比較し,データは18/35仮説を支持していると議論していることになる.このあたりはやや我田引水的な気もするところだ.


<ド・モワブル 「抽象的な思考にめくらましされなければ」>

上記の議論からしばらく経過した1756年に,ド・モワブルが参戦する.彼はアーバスノットの神によるデザイン議論を擁護した.彼の議論は以下のようなものだ.

物事の本質も見抜くためには,抽象的な眼くらましにだまされてはならない.アーバスノットの議論の本質は,「性比が成人時に1:1になるように調節されている」ということだ.「そのようになるために確率が18/35になっている」という事実はデザインがあることを示唆しているのだ.

ソーバーはこの議論を解説する上で,進化生物学でおなじみの至近因と究極因を分けて考える事を勧めている.要するに出生時性比確率が1/2か,18/35かというのは至近因のところの議論になる.そして何故18/35になっているのかが究極因の議論になる.ベルヌーイの議論は究極因とは無関係なのだ.

するとド・モワブルは全く新しい究極因にかかる議論を持ち出したことになる.ここでは「18/35という確率値は偶然決まった」という仮説と,「18/35は神のデザインだ」という仮説が対立することになる.このような枠組みではデザイン仮説の方がもっともらしいということになるだろう.


ここまでがダーウィン以前の状況だ.ヒトの出生時性比の偏りが問題になっているにもかかわらずラプラスが登場しないのがちょっと残念な気もするが,昔の議論をソーバーが裁いていく技はなかなか楽しい.




 

*1:このデータは洗礼をした子供の数なので出生データとしては正確ではないと後に注釈がある.事実,王政復古時に大きく洗礼数が落ち込んでいるし,その時点でやや性比が大きくなっているようだ.ソーバーは「これは人のインテリジェントデザインによる特徴だ」とコメントしている

*2:なおアーバスノットは男女同数である非常に小さい確率にも気を配り,厳密には上記確率は0.5^82未満であるとしている

*3:なおベルヌーイはアーバスノットのデータに見られる分散値についても議論している.アーバスノットはデータの分散値が偶然仮説によるものより小さいと主張した.今日的な解釈では,この分散についての議論はアーバスノットもベルヌーイもともに不正確だとコメントされている