War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その73

 
14世紀末のフランスの第2の転落.貴族層の過剰人口問題は解決せず,前回の転落の悲惨さを知らない若い層が台頭し,同じ過ちを繰り返したとターチンは説明する.これはターチンによるクリオダイナミクス,セキュラーサイクルの中の「父と子サイクル」の例となる.
 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その3

 

  • 第2の危機につながる出来事は,1350年代の危機を引き起こした出来事と驚くほど似ている.前回と同じく,厄災の最初の兆候は軍役の機会を求める落ちぶれた貴族の群れだった.1386年の秋,1〜2万の貴族が英国への侵入をうかがってエキュルーズに集結した(結局侵入は為されなかった).1396年には何千もの騎士が十字軍に従軍し,ニコポリスの戦いで全滅した.

 
このニコポリスの戦いは中世最後の十字軍ともいわれ,ドナウ川河畔のニコポリス(現在ではブルガリアの北部の都市)で神聖ローマ,ハンガリー,フランスなどの連合軍がオスマン帝国軍と戦い惨敗する.Wikipediaによるとフランスから従軍した騎士数は2000程度,弓兵たちとあわせて総数1万とされている.

 

  • 貴族たちは分裂して争い始めた.シャルル6世の治世1380年代に,様々な派閥の貴族がシャルル6世の叔父アンジュー公ルイ,ブルゴーニュ公フィリップ,ベリー公ジャン(彼らはいずれもジャン2世の息子で百合王子 princes of lilliesと呼ばれた)のまわりに集まった.これらの王子たちは領地から上がる税収を王家に入れずに個人的に使用した.ブルゴーニュ公の政治プログラムはブルゴーニュをフランスから独立させることだった.アンジュー公はイタリアに野心を持ち,そのために税収を使った.
  • また別の派閥には「マルムゼ」と呼ばれたシャルル賢明王に仕えていた政府高官や将軍たちのグループがあった.この派閥のみがフランス全体のことを考えていた.マルムゼの目的は納税者の負担を下げつつ,財政を再建することだった.

 

  • 1390年代を通じて,多様な権力エリートのグループは2つの派閥に集約されていった.1つは権力志向のブルゴーニュ公,もう1つは王弟ルイ(オルレアン公)が中心だった.この対立がこのあとフランスを30年もの間非常に血なまぐさい内乱に陥れると予想できた者はいなかった.

 
ブルゴーニュ公中心のグループはシャルル6世の統治を支持せず,ブルゴーニュ派と呼ばれた.オルレアン公中心のグループ派シャルル6世を支持し,マルムゼが加わり,アルマニャック派と呼ばれた.
 

  • 派閥抗争が激しい時期に一貫した政策は採れない.また王が時にみせる精神薄弱症状が中央政府の力を弱めた.王が不適格の時期にはブルゴーニュ公が台頭した.王が正常な時にはオルレアン公が浮上した.1360年の徴税合意は失われた.竃税は撤回され,売上税と塩税は一度撤回されたあと復活し,不満と小規模な反乱が生じ,反乱は力で制圧された.

 
シャルル6世は当初マルムゼの補佐を受けて治世を行い,賢王とされたが,まもなく精神障害を発症した.一説にはそれは「自分の身体がガラスでできていて何かにぶつかると砕け散る」と思い込むガラス妄想だったとされるようだ.