書評 「特殊害虫から日本を救え」

 
本書はミカンコミバエ,ウリミバエなどの日本における特殊害虫(外来侵入種である害虫)根絶についての一冊で,その歴史(著者はこれを戦史と呼んでいる),現状,教訓が語られている.著者は当事者の1人であった宮竹貴久.
 

はじめに

 
序章では,特殊害虫の根絶実績では日本は世界のトップを走っているが,現在大きな岐路に立っていること,これまで成功した根絶法には,オス除去法,不妊化法(不妊虫放飼法),寄主除去法の3つがあること,そして根絶について広く一般向けに書かれた書籍がなかったので本書を執筆することにしたことがなどが語られている.
 

第1章 オスを消す技術

 
第1章のテーマはオス除去法.日本における根絶事業の始まりと沖縄でのミカンコミバエの根絶までの歴史が語られる.
冒頭で根絶関係者の「たとえ根絶に失敗しても構わない.なぜ失敗したかわかる方,事業の過程で得られたデータはすべて論文として公表しよう」という「心構え」が示され,それを浸透させた伊藤嘉昭(著者は伊藤を根絶事業の「運命の人」と呼んでいる)が紹介される.伊藤の壮絶な生き様は自伝や追悼寄稿集で語られているが,本書の記述は一般向け書物での紹介として意義深い.
ここでは伊藤の農林省の若手時代,血のメーデー事件での騒乱罪容疑での逮捕,9ヶ月もの拘置,保釈後の長い休職生活(この間に英米の進化生態学を猛勉強して,ルイセンコの影響から脱する),17年かけて無罪判決を勝ち取り,農林省に復職し,沖縄の根絶事業にかかわることになる経緯が簡単に語られている.
 
ここからオス除去法の開発とミバエ根絶試行の歴史が語られる.

  • 1912年にある種のミバエのオスを強く誘引するメチルオイゲノールが発見される.
  • アメリカ農務省のスタイナーが,メチルオイゲノールを使ってオスをすべて取り除くことによりミカンコミバエが根絶できないかと考え,1951〜52年にハワイのオアフ島,52〜53年にハワイ島でオス除去法を実験した.試験地ではほぼオスがいなくなったが,周りから交尾済みのメスが飛来するため根絶までには至らなかった.
  • その後周りから隔離された離れ島なら可能と考え,1960年に占領下の小笠原(根絶前に作戦取りやめ),62年にマリアナ諸島のロタ島でメチルオイゲノールを使ったミカンコミバエの根絶作戦を実施した.ロタ島では根絶に成功した(ただし後に再侵入を許し,現在も繁殖している).

 
ここからが日本の根絶事業の戦史になる.

  • ロタ島での成功の報告を受け,日本でもミカンコミバエの根絶作戦が奄美諸島で開始された.伊藤ら若手は農林省の対策会議に参加し,まず生態を調べる基礎研究をするべきだと意見したが,全く無視された.1968年,まず奄美群島の喜界島で根絶作戦が実施された.約半年でミカンコミバエが姿を消すが,すぐに復活するということが7年も繰り返された.行政側が理由を究明しようとせずに事業の規模拡大を目指したからだ.(結局伊藤と沖縄県農業試験場の研究陣が,これは沖縄本島からの再侵入が原因であることを突き止め,奄美のミカンコミバエ根絶はこののち沖縄本島の根絶作戦が軌道に乗る77年以降に達成される)
  • 次の戦場は小笠原となった.東京都は1975年に根絶作戦に着手した.ここで「抵抗性ミバエ」の出現が確認され,オス除去法だけでなく不妊化法も使われることになり,84年までかけて根絶が達成される.
  • 次が沖縄だった.沖縄返還が政治日程に上がり,日本政府は復帰後の沖縄支援の事業を各省庁挙げて進めることにした.農林省ではミカンコミバエだけでなく不妊法によるウリミバエの根絶事業に取り組むこととし,伊藤に沖縄でウリミバエの根絶事業(つまり不妊化法事業)の下地を作れと密命した.伊藤は若手研究者の人事を自分にまかせることを条件にこれを受け,農林省と沖縄県はウリミバエ根絶事業全体の指揮官として伊藤を受け入れた.
  • 沖縄のミカンコミバエのオス除去法による根絶事業は1977年に開始された.(ここで事業の様々な紆余曲折が詳しく語られている)沖縄諸島でのミカンコミバエは81年に姿を消し,82年に沖縄諸島での根絶が宣言された.(その後84年に宮古諸島,86年に八重山諸島でも根絶が宣言される)

 

第2章 空から1億の不妊ミバエが降ってくる

 
第2章のテーマは不妊化法.

  • 不妊化法を着想したのはアメリカのニップリングだ.彼は1930年代にマラーの「キイロショウジョウバエに放射線を与えると不妊になる」という報告をラセンウジバエ根絶に応用できないかと考えた.この防除法は1951年に始めて実施され,54年にキュラソー島でラセンウジバエの根絶に成功した.
  • この成功が報告され,米国農務省はロタ島で63年に不妊化法でウリミバエの根絶に成功した(これは後に再侵入され,現在も繁殖している).
  • 次に不妊化法に挑戦したのが日本だった.農林省は沖縄の宮古・八重山(戦前からウリミバエに悩まされていたが,そこからの北上は阻止されていると考えられていた)でのウリミバエ根絶を目指して1970年に調査に着手した.するとすでにウリミバエは沖縄本島まで入り込んでいたことがわかった.さらに73,74年に与論島,徳之島,奄美への侵入も確認された.このままでは九州,本州への侵入も時間の問題で,もはや沖縄復帰対策どころではなくなった農林省は沖縄県,鹿児島県とともにウリミバエを南西諸島から根絶することを決意した.
  • ウリミバエの増殖法,適切な放射線量などを調査開発し,まず久米島でテストすることになった.不妊化法はオス除去法と異なり,野生害虫の数が少ない時ほど効果がある.このため野生虫の密度を標識再捕獲法で推定し,不妊虫を放つ前に密度抑圧防除を行った.その上で1975年から久米島での不妊虫の放飼が始まった.様々な紆余曲折の末(詳しく語られている),77年に根絶が確認された.
  • ここからは本丸の駆除事業となる.(ここで標識再捕獲法実施の苦労,増殖のためのハエ工場の詳細,ヘリコプターによる放飼の実務などの詳しい解説がある)
  • 最初の大規模実施は宮古島で行われた.82年から密度調査,83年から密度抑圧(誘引剤に殺虫剤を混ぜたテックス板を散布),84年から毎週30百万匹の不妊虫放飼を開始した.そして87年に根絶が確認された.(ここでも,ウリ類の多い地域のホットスポット問題,虫の増殖飼育の品質管理問題,増殖ミバエ系統の劣化問題などの紆余曲折が詳しく語られている)
  • 次は沖縄諸島(本島と南北大東島)となる.工場では毎週1億匹の生産を達成していた.それでも全島を一気に対策するには足りないので,本島中南部,北部,南北大東島の順番でたたくこととなり,中南部で85年に密度抑制,86年に不妊虫放飼が始まった(北部の不妊虫放飼は87年,大東島は88年に開始).(ここでもホットスポット問題,米軍基地上空,石油備蓄タンク群上空でのヘリコプター飛行制限問題,(不妊オスを見分けて拒否する)抵抗性メス出現問題などの紆余曲折が詳しく語られている)そして90年に根絶が確認された.
  • 最後が八重山で,90年に不妊虫放飼を開始し,92年には根絶された.作戦には20年以上の歳月がかかり,その間野に放った不妊虫は530億匹を超えた.

 
本章の最後でニップリングが示した不妊化法が成功するための条件が整理されている.

  1. 性的競争力を害さずに不妊化できる
  2. 大量増産可能
  3. 野生虫の低密度でのモニタリング法があり,放飼前に密度抑圧が可能
  4. 対費用効果がみこめる
  5. 根絶を維持できる(再侵入対策がある)
  6. 放飼不妊虫が野外で悪影響を与えない

 

第3章 エサを駆除して根絶

 
第3章のテーマは寄主除去法.一旦根絶したミバエの再侵入対策に触れたあと,サツマイモを加害するアリモドキゾウムシをめぐる戦いが紹介される.

  • アリモドキゾウムシは外来侵入種で,幼虫がサツマイモを齧り,齧られたサツマイモは苦味物質を生成し,食用できなくなる.20世紀初めに沖縄本島,1931年に奄美,59年に種子島まで分布を広げた.そして1990年代に九州鹿児島県の各所でその姿を現すようになった.これらのほとんどは早期発見でき,ゾウムシが見つかった場所の近くのヒルガオ科の寄主植物をすべて抜き取り,刈り払い,時に焼き払って除去し,早期に根絶することができた*1
  • しかし分布の拡大を許してしまったケースもある.この場合周辺のかなり広い地域でのサツマイモ焼却と栽培禁止,ヒルガオ科植物の徹底的な除去が必要になる.90年の西之表市のケースでは322ヘクタールの地域で徹底的な除去を行い,94年に根絶できた(駆除確認調査のためサツマイモ栽培が解禁されたのは98年になる).98年の高知県室戸市のケースでは780ヘクタールの地域で除去を行った(2年で根絶).
  • 2006年の芋焼酎の産地指宿市のケースでは急速な分布拡大を許し,かつイモゾウムシまで見つかった.焼却・栽培禁止・除去区域は927ヘクタールにおよび,小学生のアサガオ栽培まで禁止し,ようやく2012年に根絶できた.
  • さらに2022年には浜松で侵入と冬を越した分布拡大が生じた.浜松の戦いはなお継続中だ.昨今ではフリマアプリなどで禁止されている沖縄から県外へのサツマイモ移動が気軽に行われている実態があり,さらに侵入の頻度がたかまることが懸念される.

 

第4章 最後の1匹まで駆逐する

 
第4章ではアリモドキゾウムシに対して不妊化法を行った事例が紹介される.

  • 農水省*2は,ミカンコミバエとウリミバエで成功した根絶事業をアリモドキゾウムシにも転用しようとし,1994年から久米島で不妊化法を使った根絶事業に取り組んだ.予算を組む行政官は他種転用は容易だと考えていたが,現場の研究者は双翅目昆虫と鞘翅目昆虫では根本的に違うと危惧していた.そして実際に根絶には19年を要することになる.
  • 現場ではアリモドキゾウムシの行動や生態を徹底的に調べることから取り組んだ.まず分布状況を把握し.密度抑制作戦を開始した(この効果測定のための努力が詳しく説明されている).
  • 1998年ごろには密度抑制に目処がつき,不妊化法の見通しが付いた.ゾウムシの大量生産技術も確立し,1999年から不妊ゾウムシの放飼を開始した.放飼に当たっては現場の農家の方々の理解が非常に重要で,地道な取り組みを続けて信頼関係を作っていった.
  • 野外に放した不妊オスと野生オスを正確に区別することが難しいという問題が生じた.ミバエでは蛍光マーカーが有効だったが,ゾウムシでは脱落してしまう(時に野生ゾウムシに付着してしまう)のだ.この識別問題は南琉球に分布する褐色型の鞘翅ゾウムシを不妊にすることで解決できた(久米島のゾウムシはみな青色型だった)
  • 大量の放飼を続け,2006年には島のほとんどの地域でゾウムシが見られなくなったが.島の南部の険しい山地ででいくら放飼をしても野生ゾウムシがとれ続けるという膠着状態となった.密林を分け入って調査し(この近づくのも難しい山地の現地調査の壮絶な様子が詳しく説明されている),アメリカ占領時代の棚田跡地にノアサガオの繁殖地を見つけた.このノアサガオを徹底的に除去し,不妊虫放飼を集中的に行い,ついに2013年に根絶が確認された.
  • 2007年には勝連半島の南東にある小さな津堅島でアリモドキゾウムシの根絶を開始した.密度抑制と不妊虫放飼を行ったが根絶確認には14年もかかった.2010〜12年に一旦アリモドキゾウムシの数はほぼゼロになったのだが,その後も罠にオスがかかり続けたのだ.
  • データをじっくり眺め,勝連半島からの飛来ではないかと見当をつけ,繁殖により生まれたオスか飛来オスかを区別できる数理モデルを開発し,それを使ってデータを解析し,罠にかかり続けるオスが飛来オスであることを明らかにできた.これにより2021年には根絶が確認された. 

 

第5章 根絶を支えた研究

 
第5章では根絶事業の成功に結びついた研究例が3つ紹介されている(2番目と3番目が著者自身によるものでやや詳しい).

  • ミカンコバエの分散能力調査:小笠原諸島のいくつかの島からペイントマーカーしたコバエを放し(1万匹あまり),どの島の罠で捕まるのかを調べた.コバエは50キロ離れた島まで海上を飛ぶことがわかった.
  • アリモドキゾウムシの分散能力調査:同じくペイントマーカーしたオスのゾウムシを沖縄本島の放飼地点から季節を変えて何回か放し(総数54000匹あまり),10〜500メートルの同心円状に罠を仕掛けて再捕獲した.ゾウムシはサツマイモ栽培地域では1日300メートルぐらい分散でき,気温が低くなると分散距離は減少した.また寄主植物がいない地域ではより遠くに分散した.また浜比喜島,宮城島から放して(総数36000匹あまり),海上分散能力を調べたところ,2キロ離れた島では再捕獲でき,10数キロ離れた島では再捕獲されなかった.最後の結果は「アリモドキゾウムシは(少なくとも)2キロ連続飛翔できる」という結果だが,この数字がいつしか独り歩きして「2キロ以上は飛ばない」というニュアンスに書き換えられて広がってしまった*3
  • ウリミバエ不妊化法の実施中に農家から,不妊ミバエの刺し傷で果実に被害が出るのではないかと問い合わせがあった.不妊ミバエの卵巣は発達せず産卵はしないはずだが,誰も調べていなかったので調査した.その結果不妊虫のメスが産卵管の突出まで進む割合はスイカで0.5%程度,メロンで5%程度であること,放飼現場の農場での被害果実割合は1%未満であることがわかり,不妊化法による果実被害は皆無ではないが経済的被害許容水準を下回ると報告した.

 

第6章 根絶のこれから

 
第4章までは日本の根絶事業の成功物語(ミカンコミバエとウリミバエの南西諸島全域での根絶,アリモドキゾウムシの久米島と津堅島での根絶)だった.第6章では,うまくいかなかった事例と事業体制の弱体化問題が取り上げられている..

  • アリモドキゾウムシは離島では根絶できたが,南西諸島全域からの根絶は難しいことがわかってきた.沖縄本島や奄美大島のような大きな島を(十数メートル四方程度に)細かく区分けしてしらみつぶしに駆逐確認するのは事実上不可能だ.さらにアリモドキゾウムシを根絶できてもイモゾウムシが残っていてはサツマイモの移動禁止解除はできない.イモゾウムシには不妊化虫根絶法もモニタリング技術も開発されていない.寄主植物除去しかなく,津堅島ではなおそれで除去を目指しているが,久米島には景観植物でもあるグンバイヒルガオの大群落があり,寄主植物除去は現実的ではない.
  • イモゾウムシのモニタリングに緑のケミカルライトに誘引されるという新しい発見を使えないか研究したが,強力に集める手法は開発できなかった.
  • 1999年に与那国島でナスミバエの定着が発見され,ナスミバエの根絶事業が2004年に開始された.強力なオス誘引剤がないので,不妊化虫増殖技術を確立し,寄主植物の除去で密度抑制を行い,2007年から不妊化虫が放飼され,2011年に与那国島での根絶が確認された.
  • しかし確認作業のさなかの2010年に沖縄本島でナスミバエの定着が発見された.強力な誘引剤がないので低密度モニタリングが難しいのだ(徹底的な果実調査しかない).沖縄本島に寄主栽培植物が多くないこと,予算の制約から本島での根絶事業は見送られた.その後ナスミバエは沖縄諸島,宮古,八重山に分布を広げて広範囲に定着してしまった.一旦根絶できた与那国島にも再侵入し,定着した.

 

  • これまで根絶事業の基礎研究は「指定試験事業」の枠組みで行われてきた.しかしこの仕組みは2010年度で終了となり,研究に大いに役立っていた国から県への主任派遣も廃止された.研究拠点だった指定試験地もなくなった.
  • 指定試験事業に代わる制度は「選択と集中」で公募競争事業となり,3年間で成果を挙げることが強く求められることになった.これは根絶事業に真に役立つ予測不能な将来のための基礎研究には向かない.各地方の現場では任期つき若手研究員を雇ってしのいでいるが,国の政策の根幹を支える人材ヘの処遇としてはまことに不十分なものになっている.
  • さらにこれまでの南西諸島の根絶事業は農水省直轄の予算のもとに農水省と沖縄県が主導してきた.しかしこの予算は沖縄振興一括交付金に移され,農水省と沖縄県の間に内閣府が割り込む形になり,沖縄以外の事業と切り放されて,県同士の情報共有の場がなくなった.
  • これに加えてこれまでの根絶事業によく生じた緊急時対応が「働き方改革」で難しくなっているという状況も加わった.日本の根絶事業の足腰は弱ってきている.

 

第7章 そして再侵入が始まった.

 
第7章では,根絶した害虫の再侵入の最新状況が描かれる.

  • 2015年以降ミカンコミバエは南西諸島に頻繁に再侵入を繰り返すようになった(その度に現場では緊急対応が行われて初動防除に成功している.2015年の奄美侵入と現場の緊急対策が詳しく解説されている).これは再定着の始まりかもしれない.
  • 2020年には九州本土にもミカンコミバエが侵入した(鹿児島,熊本,福岡,長崎,宮崎で罠にかかった).また2021年についに石垣島で越冬を許してしまった(現在懸命に対策中).
  • まずこれらのミカンコミバエがどこから飛来したかを突き止めることが喫緊の課題だ(まだ確かな証拠はないが,東南アジアに加えて中国南部からの飛来が増えているのではとする論考もある).
  • 片方で海外からの輸入や観光客が持ち込む果実も増えており,現場では懸命な水際作戦が展開されている.このルートでチチュウカイミバエが持ち込まれてしまえば日本の果実栽培農家にとっては重大な脅威になる.
  • 本書原稿の校正作業中には2024年3月にイモゾウムシが鹿児島で見つかるというニュースも飛び込んできた.読者の方々には是非この脅威が迫っている現実を認識してほしい.

 
著者は「おわりに」で,もう一度基礎研究の重要性とそれが短期的成果主義により困難になっている現状,南西諸島からサツマイモを島外に郵送したりネット販売することの危険性を理解してほしいことを訴えて本書を終えている.
 
本書は特殊害虫根絶にかかわった著者による根絶事業の歴史(特にあまり一般には知られることのなかった壮絶な努力と紆余曲折)を語る本であり,その事業を支えた日本の研究および実務体制の弱体化と再侵入の脅威が迫っていることを世間に訴える本でもある.
一旦定着した外来種の根絶は基本的に非常に困難で,一度侵入を許してしまうと取り返しがつかない結果に結びつきやすいというのはある程度分かっている話ではあるが,それを乗り越える根絶事業のすさまじさ,そして現在は何かが崩壊する瀬戸際かもしれないという切迫感が本書に大きな迫力を与えている.ゴーヤチャンプルーを楽しみ,ウジの心配せずにミカンが食べられる現状が続いてほしいと思うすべての人に読んでほしい一冊だ.
 
 
関連書籍
 
伊藤嘉昭関連書
 
自伝

  
追悼寄稿集 私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20170509/1494292695
 
宮竹の著書.最初の三冊についての私の書評は,
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20111217/1324090623https://shorebird.hatenablog.com/entry/20150721/1437433002https://shorebird.hatenablog.com/entry/20180430/1525055747
  

*1:これらの早期侵入地のうち種子島では早期根絶できずに根絶まで10年を要した

*2:1978年に農林省から農林水産省に改称

*3:2キロという数字を公表した当人として,著者は今も複雑な気持ちでアリモドキゾウムシの侵入防止事業の成り行きを見守っているそうだ