War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その74

 
14世紀末のフランスの第2の転落.貴族層の過剰人口問題は解決せず,前回の転落の悲惨さを知らない若い層が台頭し,同じ過ちを繰り返したとターチンは説明する.これはターチンによるクリオダイナミクス,セキュラーサイクルの中の「父と子サイクル」の例となる.
フランス貴族たちはアルマニャック派(国王支持)とブルゴーニュ派に分かれて争うようになる.
 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その4

 

  • ブルゴーニュ公フィリップ(賢明王世代)が生存中はオルレアン公派との争いは暴力的にはならなかった.しかし1404年にフィリップは死に,息子のジャン無怖公が跡を継いだ.ジャンは勇猛,向こう見ず,そして残虐な性格の持ち主で,オルレアン公ルイの暗殺を命じた.1407年の11月,ルイは城から自宅に戻るところを待ち伏せされ,惨殺された.

 

  • この殺人は,ちょうど50年前のナヴァラ派による司令官の殺人と同じく,暴力エスカレートの引き金となった.フランスのエリートは2つの軍に分かれた.反ブルゴーニュ派は今やアルマニャック伯(シャルルの義父で新オルレアン公)を旗頭とし,アルマニャック派と呼ばれるようになった.アルマニャック派は王政府高官や上位貴族たちに支持され,南部,南西部が地盤だった.ブルゴーニュ派は北部,北東部を地盤とし,パリのブルジョワや大学の支持を得ていた.
  • 1407〜1414年に2派は首都をめぐって戦った.双方ともに英国の支持を求めた.1413年に王政府は三部会を招集し新しい税法への同意を求めた.3部会はこれを拒否し,不当行為を行った高官の解雇と政府の改革を要求した.王政府はこの要求を無視できず,財政官僚たちを解雇し,改革のための調査委員会を指名した.

 
オルレアン公暗殺はたしかに歴史の転換点というに相応しい出来事だったようだ. 

 

  • フランスは1350年代を再現すると決めたようにしかみえなかった.そして前回と同じように(前回は捕囚のため,今回は精神薄弱のため)王は実権をうまく行使できなかった.ジャン無怖公は悪玉シャルルの役回りを完璧に演じた.
  • そしてエティエンヌ・マルセル役も登場した.1413年4月,肉屋のカボシュに率いられたパリの暴徒たちが王と皇太子の住居に押し入った.彼らは王の従者3人を殺し,15人を捕虜とした.さらにバスティーユを包囲し,アルマニャック派をパリから追い出した.暴動は翌月も続いた.暴徒たちは王を脅し,毎日のように王のまわりの誰かを殺して,改革を要求した.
  • しかしついにカボシュたちのやり過ぎは(2世代前にマルセルが支持を失ったのとまさに同じように)市民たちの支持を失うことにつながった.市民たちはシャルル皇太子(後のシャルル7世)に接触し,アルマニャック派を呼び戻した.権力は(カボシュを裏で操っていた)ジャン無怖公からアルマニャック派にうつった.ブルゴーニュ派は王の誘拐を企てたが失敗し,ジャンとカボシュはパリを去った.

 
こうしてフランス内が争っていると,当然ながら英国が介入してくることになる.
 

  • 1414年までにアルマニャック派はフランスのほとんどの地域をコントロールするようになった.しかしここで英国で新王が即位した.若く,野心を持ち,フランスの無政府状態を注意深く観察していたヘンリー5世だ.ヘンリー5世はジャン無怖公と同盟を結び,1415年にフランスに侵入し,アジャンクールでフランス軍と対戦した.アジャンクールの戦いはほとんどクレシーの戦いの再現だった.1万の英国軍が3倍のフランス軍を打ち破ったのだ.戦いの終わりには1万ものフランス軍の兵の死体が戦場に残された.

 

アジャンクールの戦いも軍史的には英国のロングボウ部隊がフランスの重装騎兵を打ち破った戦いとして有名だ.そういう意味でもクレシーの戦いの再現と呼ぶに相応しい.