「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第3章  「性比理論,ダーウィン,それ以前,そしてそれ以後」 その2 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)



ソーバーによる性比の議論.いよいよダーウィンの登場だ.

一般的に進化生物学の教科書などによると,性比を自然淘汰の視点から考察した嚆矢はフィッシャーとされることが多い.ソーバーはさすがに碩学ぶりを発揮してそれ以前の議論を掘り起こしてきている.


ダーウィンのモノガミーからの議論とその撤退>

ダーウィンは「Descent」の初版で性比を議論し,第二版で削除しているそうだ.

ソーバーによるまとめでは,初版のダーウィンの議論の大枠は以下の通りになる.

観察によるとごく一部の哺乳類,多くの鳥類,いくつかの魚類と昆虫は性比がオスに傾いている.一部の昆虫ではメスに傾いている.ヒトについては出生時にオスに傾いているが,オスの方が死亡率が高いため成熟時には1になるようだ.
一部の社会性昆虫のメスに大きく傾いた性比は,オスが多くのメスを受精させることができるため種にとって大きく利益になっているだろう.それは自然淘汰の結果である可能性もある.しかし,このような現象はまれであるのでここでは考察しない.
では何故多くの生物で性比は1に近いのか.それは自然淘汰が(限界はあっても)より性比を1に近づける作用を持つからだ.もしある種の動物がモノガミーであるなら,性比は性的成熟時に1:1になるように自然淘汰によって進化するだろう.それはその時点で「あまり」がでるような性の子を作るのは親にとって不利になるからだ.そして一夫多妻種であっても極端な性比を緩和する淘汰が働くが,その場合「あまり」がでるまではメスに傾きうるだろう.

これを読んだ私の印象は「ダーウィンはフィッシャーまで後一歩というところに迫っている.惜しい」というものだ.ここには明確に性比を親の戦略として考え,適応度について孫の数を考え,さらに淘汰について個体淘汰的に考えるという思考が見える.これはきわめて現代的な思考様式だと評価できる.ダーウィンが誤ったのは,息子があぶれるリスクがあれば必ず不利だと即断したところにある.時にあぶれても,うまくいくこともあるなら,平均的繁殖成功を問題にすべきなのだ.そこに気づけば,繁殖システムにかかわらず自然淘汰によって性比が1になる傾向が生じると正しく洞察できただろう.(もう一つフィッシャーとの差は投資コストを考察に入れていないところだが,これはやや細かい点だ)


さてソーバーはどうコメントしているだろうか.
ソーバーは,まずダーウィンの性比1への適応議論はモノガミーが前提になっていると指摘している.アーバスノットは性比の議論を通じてモノガミーを擁護しようとし,ダーウィンはそもそもの議論の前提としたというわけだ.

二つ目のコメントは,「これは個体淘汰的かそれともグループ淘汰的か」というポイントについてのものだ.私から見ると(中段には怪しげな「種のため」という言葉もあるものの,少なくとも議論の中心である後段については)これ以上個体淘汰的な思考様式はないように思えるが,さすがにソーバーはしぶとい.モノガミーが前提なら,性比1は繁殖グループにとって他グループとの比較において有利になることを指摘した上で,ダーウィンはグループ間の比較を行っていないので,これは個体淘汰的と読むしかないと残念そうに書いている.


第2版ではダーウィンはこの議論を削除し,注釈にこう書いている.

私はかつて,種にとって有利な場合,性比1が自然淘汰により進化すると考えていたが,しかし今や,すべての問題は大変入り組んでいることがわかった.だからこの問題は将来にゆだねることが賢い選択だろう.
・・・
性比1やどちらかに大きく傾いた性比がある種にとって有利であっても,それぞれの個体にとっては不利になることがある.その場合には自然淘汰でそのような性質が進化することはできない.

これはまたダーウィンがかつてナイーブグループ淘汰的になったこともあったが最終的に個体淘汰主義の立場を強く打ち出しているようにも読めるところで,なかなか興味深い.しかし初版での性比の議論は個体淘汰的であるから,なかなかこの文章の前段の意味はよくわからないところがある.ソーバーもこれには困惑しているようで,全般的なダーウィンの立場については第2章の通りだが,何故初版で個体淘汰的に性比を説明しているのに,ここではこのように書いたかについてはよくわからないとコメントしている.

そしてソーバーはダーウィンの撤退について別の理由もあったのだろうと付け加えている.ダーウィンの議論ではモノガミーは性比の進化の前提になる.しかし大型類人猿の繁殖システムはまちまちであり,最節約的な系統樹思考を用いれば,繁殖システムは進化史的に変化しやすい性質であり,性比進化の前提として用いるのに問題があると気づいたからではないかというものだ.なかなか鋭い指摘かもしれない.


ここまでがソーバーのまとめについてのコメントだが,ここでどうもダーウィンの書きぶりがしっくりこなかったので原典に当たってみることにした.するとDescent初版におけるダーウィンの議論はソーバーのまとめよりはるかに混沌としていることがわかる.「(社会性昆虫などのメスに傾いた性比については)まれであるので考察しない」より後の部分は大体以下のような流れになっている.

  1. 通常の種において性比が傾いていることは,ある個体にとって(他個体との対比で)有利でも不利でもないだろう
  2. だから性比が傾いていること自体は自然淘汰によって生じたとは考えにくい
  3. 性比の傾きは(ヒトにおいて地域間や嫡出か非嫡出かで性比がわずかに異なる*1ように)何らかの未知の要因によるものだろう
  4. ではその未知の理由によって性比が傾いている種において何が生じるかを考えてみよう.
  5. オス過剰の種においては多くのオス個体は不要だ.このような場合に自然淘汰によって性比1に近づくだろうか?
  6. 両親の生む子の性比は遺伝すると考えられる.だからよりメスを多く産む親は有利になり,そのような性質が増えていくだろう.だから自然淘汰は両性を均衡させる傾向を生むだろう.またこの議論はメス過剰種においても成り立つ.一夫多妻種でもメスが余剰になっている状態では同じことが生じるだろう.
  7. しかし種全体として考えると産仔数が増えて,より生存競争は厳しくなるだろう.すると種として有利になるには,性比が均衡すると同時に産仔数減少傾向が生じなくてはならない.
  8. これは,メスの子の数は同じでオスの子の数を減らすような性質の進化によって達成できる.そしてそれは余剰オスにかかるはずのリソースを残りの子に振り向けることによる有利さによって可能になるだろう.

最初の2段は極めて個体淘汰的で,6段目までがソーバーのまとめにある性比議論になる.しかし7段目以降は「種にとっての利益」の視点がまざり,産仔数制限が(種にとって)有利だ*2というナイーブグループ淘汰的な思考が混入しているようだ.とはいえ流石に種のためグループ淘汰で説明しようとはせずに,最後は「個体淘汰的な利益による自然淘汰で,(結果的に)そのような種のための性質が進化しうる」というあくまで個体淘汰的な説明をしようとしている.
このナイーブグループ淘汰的視点の混入の記述は私のようなダーウィンファンにとっては残念な限りというしかない.そしてこれはグループ間淘汰の枠組みになっていないので,ソーバーからみても是認できないナイーブグループ淘汰ということなのだろう.おそらく第二版の注釈にあるのはこの7段目以降の議論だと思われる.



 

*1:この前段でダーウィンは様々なデータを吟味している.その結果このような差があるという認識だったようだ

*2:確かに生存競争が激化するのはこの種の個体にとっては厳しい状況だが,「種のため」の視点をとるなら,より淘汰圧が強くなって進化速度が上がり種間競争上有利になるようにも思われる.その意味ではダーウィンのこの考え方は二重に不思議だということができるだろう