「博物学の時間」

本書はササラダニの分類が専門のダニ学者,青木淳一による50年に及ぶ研究生活を振り返ってのエッセイ集のような書物.もともと東大出版会のUP誌に連載していたエッセイに大幅に加筆して一冊にまとめたものだ.

第1章でNatural History(最近「自然史」と訳されることが多いが,「博物学」でいいではないかというのが著者の見解だ)の楽しさ,意義,日本の豊かな自然が語られる.

第2章は分類群や種の名前についての蘊蓄が語られる.現在和名についてはカタカナ表記が標準だが,著者が編纂した図鑑では意味がわかりやすいように漢字表記を添えたそうだ.たしかに臭亀(クサガメ),嘴太烏(ハシブトガラス),鍬形虫(クワガタムシ)などと書いた方が名前の意味はわかりやすい.慣れの問題だろうがカタカナ和名になれていると別の生物のような気もしてくるから不思議だ.胡蜂(スズメバチ),天牛(カミキリムシ*1),蜚蠊(ゴキブリ)などの難読漢字についてはいろいろ意見もあるだろう.このほか学名の規則,全世界の種数の推測,身近な食物の種識別ガイドなども扱っている.いずれも肩の力が抜けた楽しいエッセイだ.

第3章では著者の専門である分類についての蘊蓄が扱われている.様々な図鑑の紹介,専門家が用いるやり方(新種記載をするには,その属に含まれるすべての生物種についてどれにも該当しないことを確かめなければならない.だから原著論文を苦労して集めることになる.最後の1つの論文が入手できないために記載論文が何年も寝かせたままになっていることがよくあるそうだ),同定依頼のエチケット(標本には詳しい採集データを付け,適切な状態にして送付し,返却を求めないのが望ましいのだそうだ),新種記載の実際,博物館の役割が語られる.

第4章は生物採集の楽しみ.ここでは子供の虫採りを禁じる最近の風潮を嘆き,昆虫採集の楽しさを力説し,それがアマチュア博物学への貢献になると書いている.

第5章は生物地理について,日本列島の生物地理区分を解説し,生物分布図の作り方を実践的に説明する.著者自身が開発した南西諸島の島の面積を考慮した分布図,気候帯を考慮した日本全体の生物分布図を提示し,誰でも使って欲しいと呼びかけている.また自身の調査の経験として高度に応じた生物の分布,島の生物分布が語られる.

第6章,第7章は著者の研究物語.美ヶ原におけるササラダニの初採集,日光における2ヶ月間の集中採集,榛名山の土壌生物調査,志賀山での国際生物学事業への参加,巨大コウガイビル,樹上のササラダニ,命がけのポロシリ岳調査,屋久島調査,小笠原調査,トカラ列島調査,アリの巣に生息する好蟻性のササラダニ,真鶴海岸のツツガムシなどが語られている,いずれも実話であり臨場感あふれていて読んでいて面白い.

第8章に博物学者の遺言のようなメッセージが書かれている.博物学が生物学リサーチの土台であること,標本と文献は貴重な知的財産であることがまず力説される.そして特定分野の専門家は生きているうちに自分の後継者を作ってノウハウを直接伝承することが望ましいこと,手元にある貴重な標本と文献はきちんと整理した上で死後どうするかを明確に指示しておくこと(遺族には価値がわからずゴミとして処分される例が多いらしい)が重要であることが書かれている.著者は島野智之をはじめとする後継者に恵まれ,喜寿をきっかけにすべて博物館と大学に寄贈し,昆虫少年に戻ってホソカタムシの採集を楽しむ日々であるそうだ.

というわけで本書はササラダニ研究一筋50年の分類学者が,自分の研究生活を振り返り,思いを綴っている本ということになる.ある意味研究人生が濃縮された貴重なエッセンスが描かれているし,片方で洒脱な蘊蓄話なども挿入されている.全体としてさらっと読める楽しい本に仕上がっていると思う.


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*1:著者はカミキリムシの漢字表記について「天牛」のみを記しているが,わかりやすさというなら「髪切虫」の表記の方がいいような気もする