「Homo Mysterious」


本書は行動生態学者デイヴィッド・バラシュによるヒトにかかる進化生物学的な謎を解説した本になる.扱われているのは前著の「女性の曲線美はなぜ生まれたか」のトピックでもあったヒトのセクシュアリティの諸問題に加えて,芸術,宗教,知性という問題だ.それぞれ「なぜこのような形質が進化したのか」「(淘汰形質だとすると)適応価はどこにあるのか」あたりがポイントになる.バラシュは,それぞれのトピックについてまずそれまでの様々な議論を整理して,その上で自説を付け加えたり,なお未解決だとして整理したりしており,いわば一般向けの総説論文のような本に仕上がっている.

冒頭で本書執筆の姿勢が書かれている.一時言われた「科学の終焉」とはまるで異なり,なお未解決問題は多いこと,ここでは啓蒙思想の精神に立ち,ヒトにかかる未解決問題を解説していくこと,特に究極因的な問題を考察することが宣言されている.このあたりはお約束というところだが結構力が入っている.

ここからは各論だ.最初は女性のセクシャリティにかかる問題.生理,排卵隠蔽,胸の膨らみ,オーガズム,閉経がまず扱われる.基本的に前著の考察が繰り返されている.本書の価値はその総説的な部分にあると思うので,少し詳しくバラシュによる整理を紹介しよう.


<生理>
ヒトの女性の生理は進化的に謎だ.ごくわずかにほかの哺乳類でも生理があるものがあるが,ヒトほど大量に失血しない.なぜこんなコスト(純粋な生理的コストに加えて,子宮内膜症リスク,補食リスクの増大,非妊娠期間の増加もある)がかかるものが進化したのか.


1.信号説
(1) 女性が自分の身体が妊娠していないことを知るための信号という説:しかし自分で知るためにしてはコストが高すぎるように思われる.
(2) 社会的な信号(この娘は性的に成熟しているよ)という説:これは女性間の競争を考えると本人にとって不利になるように思える.
(3) 近縁者に知らせている信号(この娘はこれから女性間の競争に巻き込まれるよ,助けてあげて)だという説:もし競争の激しさや,近縁者の有無によって出血量が異なれば面白い.しかし(コストの高さから見て)難しそうだ.
(4) 男性に対する信号だという説:これもコストの高さを説明できそうにない.

信号だという説にはコストの高さ(なぜ単に腫れるなどの方法ではだめなのか)のほかに別の問題がある.なぜ伝統社会ではこれが周りから忌避されているか,現代でも女性は隠そうとするかということを説明できなければならないが,それに成功しそうなものはない.


2.衛生説
精子・精液は非衛生的だ.生理はこれを洗い流すための適応だとする説.プロフェットは子宮はそのようにデザインされていると主張した.
しかし血液に含まれる鉄分は病原体の栄養になりかねない.また感染リスクと出血量の相関,あるいは性交頻度と出血量の相関の証拠はない.生理後に病原体が減少するという証拠もない.また伝統社会では妊娠期間が多いために生理自体が少ないが,それにより現代社会より感染しやすいというデータもない.


3.効率説
子宮内壁をメンテするよりいったん捨てて再建した方が効率的だという説.しかしなぜもっと効率的にメンテできるように進化できなかった(それは難しいことにように思えない)は説明できない.

なおバラシュは明示していないが,この衛生説,効率説はなぜヒトが独特なのかについて説明できないという弱点もあると思われる.


4.評価説
この生理という試練をくぐり抜けた受精卵(特定のホルモン産出量でテストされる)だけを妊娠するという説.ヒトの女性は特に大きな投資を行うのでより入念にテストするという考え方に基づく.
しかしこの仮説によると,衛生説と同じような予想(性交頻度との相関など)が得られるが,いずれもデータと合わない.大きな子育て投資をするほかの動物に生理がないこととも符合しない.


バラシュは生理については全く未解決の謎だとまとめている.


<排卵隠蔽>
チンパンジーのメスは性器を膨張させて発情を示す.多くの哺乳類では臭いなどで発情を示す.しかしヒトでは排卵を隠している.しかも本人にもわからないのだ.なぜほかの哺乳類と異なっているのか.排卵隠蔽はユニバーサルで,隠されているように入念にデザインされているように見える.だから適応形質であると強く推測できる.しかし適応価は何だろうか.これは謎だ.


1.女性間の競争を避けるための信号隠蔽
しかし女性間の競争の強さと隠蔽度は相関していない.優位な女性の隠蔽度が弱いということもない.


2.魅力的な男性をずっと引きとめておくための策略説
しかし霊長類の比較研究によると,モノガミー種の隠蔽度が高いということはない.それにより絆形成が容易になるという説もあるが,モノガミーの鳥やテナガザルなどはつがい間であまり性交をしない期間があってもモノガミーが崩れるわけではない.


3.パートナーの男性のメイトガードさせにくくしておいて自分が浮気しやすいようにする説.(女性による配偶コントロール説)
より魅力的なあるいは優位な男性との浮気は,よい遺伝子を得るほか,子殺しリスクを避けるメリットもある.これは隠蔽するメスの利益を考えている点において優れた説だ.

バラシュは,ここで「排卵中の女性は(意識的に排卵中であることを知らないが)よりセクシーな服装をする(そして男性もその時期の女性により魅力を感じている)」というリサーチデータとの関連について注意を喚起して,以下のコメントを行っている.

  • 一部の学者は結局女性は排卵を広告しているのだと解釈するが,他の哺乳類の非常に目立つ発情サインに比べると違いは大きく,基本的には女性による配偶コントロールのために進化した「秘密の発情: cryptic estrus」と考えていいのだろう.
  • すると女性は排卵隠蔽により性交回数が増えることになる.これは2のペアボンドの絆形成に役立っただろうと考える説の復活にも結びつきうるが,なぜ絆がセックスと絡まなければならないのかという問題に戻る.
  • 結局性交回数は,オスの父性の不確実性に対する対応策だ.女性の立場から言うと,(うまく浮気をするために)男性に疑惑を抱かせないためにもその要求に応じた方がよいからそうしているということになるだろう.(なおそれで社会が平和になるからと説明するとそれはナイーブグループ淘汰的誤謬になる)
  • 女性の配偶コントロール説は有力だが,ではなぜ女性自身からも隠されているのかという問題は残る.そこで次の興味深い仮説が提出されている.


4.頭痛説*1
進化環境では妊娠のリスクが高いので,女性は(適応価に反していても意識的に)より子数が少ない方を望んだだろう.そのために,もし排卵が女性自身から隠されていなければ,その時期の性交を避けようとする可能性がある.そして女性自身からも隠されている方がより子数が増えて最終的に繁殖価が高くなっただろうという説.


結論としてバラシュは,なお未解決問題ではあるものの,女性による配偶コントロール説と頭痛説の両方に好意的だ.なお頭痛説については,なぜリスクがあっても妊娠を望むように進化しないのかという問題が残るように思う.進化にとってはそう心理的に調整するより単に隠す方が容易だったということかもしれない.


<胸の膨らみ>
これは排卵と逆だ.なぜそれはそのように目立つのか.いかにも授乳と関係しそうだが,胸の膨らみは脂肪によるもので,直接授乳能力に相関しないし,子育て期にだけ発達するわけでもない.カロリーの貯蔵なら別の場所の方が合理的だ.そもそもなぜほかの哺乳類でそうなっていないかも説明できなければならない.男性が胸に強く執着するのは何らかの性淘汰が働いていることを強く示唆している.

バラシュはここでデズモンド・モリスの尻擬態説,エレイン・モーガンのアクア説(浮力器官)を一蹴してから様々な性淘汰仮説を検討する.性淘汰形質であるには,胸の膨らみが何らかの女性の質を表す正直な信号になっていなければならない.候補は次の2説になる.

  • 大きな胸は左右対称性を示すためのハンディキャップという説
  • 将来の累積繁殖能力(性的成熟しておりかつ若い)を示すためのハンディキャップ(大きな胸は年をとると垂れやすい)という説

バラシュはそもそも大きな胸は本当に左右対称を隠しにくくなるのかどうかについて懐疑的で,後者の考え方に好意的だ.私は性淘汰の淘汰圧は左右対称性よりも繁殖能力の方が遙かに大きいことから説明した方がいいと思う.いずれにしても繁殖能力ハンディキャップ説は検証されてはいないがかなり有力な考えと言っていいだろう.


<オーガズム>
女性のオーガズムの有無は妊娠と相関するというデータはない*2.そしてオーガズムを感じない女性も一定比率で存在する.なぜ一部の女性にオーガズムがあるのかは謎だ.

バラシュはまずばかげた説(デズモンド・モリスの「より女性を水平姿勢に長く保つ」説(何の根拠もない),「性交後,補食動物に見つかりにくくなる」説(そもそもオーガズムがある方が見つかりやすそう)など)をまとめて一蹴して,仮説検討に進む.


1.報酬説
「女性に性交へ向かわせる報酬」説は,多くの動物はそんなものを必要としていないので一見ばかげているように思われるが,「ヒトは意識があるので事情が異なる」という考え方はよく検討する価値がある(ちょうど頭痛説と同じ).しかし(それを感じない女性もいるので)それが主要な適応価だとは思えない.


2.副産物説
適応ではなく副産物だという説がある.男性のオーガズムの副産物だというのだ,これはドナルド・サイモンズが提唱し,グールドが熱狂的に支持したことで知られる.
しかしオーガズムが非常に複雑で洗練された生理反応(常に感じるわけではない)であること,クリトリスにペニス以上に神経が集中していることから見ても副産物だとは考えにくい.


3.子殺し保険説
ハーディは,オーガズムが連続して感じられるのは,女性がより満足を求めてパートナー以外の男性との性交に誘導され,子殺し保険がかかかりやすくなるための適応でないかと考えた.そしてそれは二次的にペアボンド強化という機能も持ったのではないかとしている.これは適応価としてあり得る説明だ.


4.評価仮説
オーガズムが,状況や相手によって感じたり感じなかったりすること,自慰の方が感じる可能性が高いことは,それの有無を通じて女性が男性を評価していることを示唆している.一部の女性が感じないというのは,そのような状況に遭遇していないからだと解釈できる.
これは魅力的な仮説だ.これは男性が相手がオーガズムを感じたかどうかを気にすることも説明する.そして女性は感じた振りをして男性を操作しているのかもしれない.だとすると女性にとってオーガズムは評価手段だけでなく操作手段にもなっていることになる.

バラシュは3と4は両方効いただろうと考えているようだ.


<閉経>
なぜ女性はある年齢で繁殖をやめてしまうのか.これは繁殖価にとってマイナスに効きそうなので,進化的な謎だ.


1.卵子を使い果たす説
そもそもなぜ卵子がその数になっているかが説明できなければ無意味だ.


2.平均寿命が延びたことに対するミスマッチ説
平均寿命は進化環境より延びているが,当時でも長寿の女性はいたことが明らかになっているし,女性だけそうなることを説明できない.

バラシュは包括適応度を説明し,以下の3仮説を互いに排他的でないあり得る仮説として紹介している.


3.分別のある母説
母親に子育てにコストが大きくかかるため,ある年齢以上での出産は,上の子との共倒れになってしまうリスクによるデメリットが,繁殖を続けるメリットより大きくなるという説.


4.おばあちゃん仮説
ある年齢を越えると自分で出産するより,孫の面倒を見る方が包括適応度が高くなるという説


5.繁殖競争回避説
ある年齢を越えると娘との繁殖競争を回避した方が包括適応度が高くなるという説


<それ以外のセクシャリティの謎>
ここからは前著にないトピックになる.まずバラシュはそれ以外のヒトのセクシャリティに関する謎をいくつか提示している.

  • なぜ男性の方が毛深くて,男性の方がはげやすいのか:社会的シグナル?でも一体何の?
  • なぜ女性の方が身なりを気にするのか:ヒトの場合には男性も女性も配偶者選択を行う.特に男性側に若さへの好みがあるためか? あるいは配偶システムの一妻多夫方向への変化が素早くて文化的な発情形式をとるようになったのか?
  • なぜ女性の方が長寿なのか:男性の方が繁殖成功の分散が大きく,性淘汰圧が強いため

ハゲの進化的説明はなかなか難しい.文化的発情信号の議論はちょっと無理筋みたいだが,考え方はおもしろい.バラシュはここで有性生殖の謎についても解説している.


<同性愛>
これは欧米ではゲイ差別の文脈で大変関心の高いテーマだ.バラシュはかなり詳しく論じている.排他的な同性愛は繁殖上不利だと思われるのだが,その傾向の遺伝的な基盤があるのは確かであり,進化的にもこれは大きな謎なのだ.

バラシュは同性愛傾向が幅を持った連続的現象であることや,同性愛傾向の遺伝的基盤を巡る学説史*3,そのユニバーサル性を紹介した上で,仮説を検討する.


1.(幼少期のトラウマなどで発症する)病的状態だという説
現在これを(アメリカで)まともに唱えているのは右派イデオローグと宗教的原理主義者たちだそうだ.そして彼らの根拠は排他的な同性愛傾向を示す動物はほかにいないということらしい.しかし現在では多くの動物で同性愛行動が観察されている.このほか自然がみせる無駄の一つだなどのイデオローグ的な説もあるようだ.バラシュは続いて自然主義的誤謬について詳しく解説している.


バラシュはここで包括適応度理論を簡単に解説し*4,血縁淘汰的な仮説をいくつか検討する.


2.血縁淘汰仮説
(1)同性愛の人はより血縁者に利他的に接する説
データでは利他行動は特に血縁者に向けられるわけではない.シャーマンなどの社会的権威に基づく利益が血縁者にもたらされたという説もあるが,実証的なデータはない.さらに血縁者の中に同性愛者がいることを忌避する傾向が広く見られることも説明できない.そもそもなぜ同性愛傾向があれば利他的になるのかが全く説明できない.
しかしこの説は全く死んだわけではない.サモアでは甥や姪に大きく利他的に振る舞う同性愛者の存在が見つかっている.だからこれで全部説明できないにしても進化環境で幾分かの適応価を加算した可能性は残っている.

(2)血縁者にリソースを残した説(これは貧しい家庭の子が修道院に入って家族共倒れを防ぐというイメージからきている)
(3)コンフリクトを減らし,それが血縁者にメリットになった説
(4)社会的スキルが高く互恵的利益を血縁者に与えただろうという説

バラシュはこれらのメリットが血縁者に限られるのは難しいのではないかと示唆している.私から見ると,さらに定量的にとても進化条件を満たせそうもないところが難しいと思う.いずれにせよこのような適応仮説では,同性愛傾向が低頻度で多型になっていることを説明できない.そこで様々な遺伝的な仕組みを元にした平衡仮説が登場する.


3.遺伝的平衡仮説
(1)ヘテロの時に何らかのメリットが発現するという説(超優性仮説):どのようなメリットがあるのかについて何ら説明がなく,実証的データもない.
(2)何らかのメリットある遺伝子と連鎖不平衡になっているという説(連鎖不平衡説):どのような遺伝子と連鎖不平衡になっているかの説明がない.実証的データもない.
(3)何らかのメリットのある形質と多面発現しているという説(多面発現説):同じく具体的メリットの説明がなく,実証データに欠ける.
(4)突然変異淘汰平衡仮説:非常に高い変異率が必要になり,長期的にはそのような変異を抑制する仕組みが進化すると思われる.そもそも当該突然変異が同定されていない.

また説得的であるためには同性愛の性差も説明できなくてはならない.同性愛は女性の方が頻度が低く,より遺伝率が高い.性染色体から説明しようという試みはうまくいっていない.いずれにせよ遺伝だけでなく環境の問題も重要だと指摘して,バラシュは社会的な状況も考慮に入れた平衡仮説に進む.

(5)量的な閾値仮説.何らかのメリットがある形質が一定閾値を越えると同性愛傾向が発現するという考え方.例えば社会的スキルの向上など.これは超優性に近い考え方になる.
(6)拮抗性淘汰仮説.男性の同性愛をもたらす遺伝子が女性においては何らかのメリットをもたらす(そして女性の同性愛遺伝子は男性においてメリットをもたらす)という仮説.前者については同性愛の息子を生む母親の方が繁殖価が高いというデータがある.ただし後者については何のデータもない.

さらに社会的影響を重要視する仮説群がある.


4.社会仮説
(1)練習説:異性との性交の練習になるという説.確かに同性愛傾向は若い時点に高い.しかしこれは排他的同性愛傾向を説明できない.
(2)性淘汰説.ゲイの方がもてる(そして排他的でない同性愛傾向者はより多く子を作れる)という説.これも排他的同性愛傾向を説明できない.またお転婆娘のアピールは本当に高いのかという問題もある.
(3)社会的糊説.オス同士の同盟などの社会的絆を形成するのに役立つという説.(ハンドウイルカやボノボの生態にヒントを得た仮説)*5

バラシュはかなり細かくいろいろな考え方を紹介している.社会的関心が高いのでいろいろな説が提示されているということだろう.このほかにもコミュニケーション上の有利さ,仲直りの技術,意中の異性の相手に対するアピール*6などを指摘する仮説があるそうだ.なお「同性愛行動が繁殖上の競争に絡んで有利になるケース」については動物のリサーチが蓄積されていて,ここではその詳細も紹介されていて読みどころになっている.

さらに別の行動生態的な仮説がある.


5.繁殖の偏り仮説
社会性の種でオスの繁殖成功の分散が高い場合,劣位オスは一時的に繁殖を断念してグループにとどまった方が有利な場合がある.それにより追い出されることなく社会的地位の向上をはかれる,あるいはメスとの繁殖機会を探れることになる(行動生態学では有名な「メス擬態」にヒントを得た仮説).これは少なくともなぜ同性愛傾向が男性の方で頻度が多いのかを説明できる.

バラシュはここでいくつかの至近要因仮説も紹介している.ネオテニー,生まれ順,ホルモン,視床下部構造の違いなどだ,これらについてはまだよくわかっていないことのようだ.バラシュは究極因と混同しないことに注意を促している.


6.副産物仮説
アホウドリのメスペアの行動から,「ペアボンドを作りたいという衝動」の副産物仮説が提唱されている.バラシュはこの現象は適応的に解釈できるとしてこれを退ける.


7.寄生体による操作説
性的感染を起こす性病の病原体による操作という可能性は理論的にはあり得る.しかし何のデータもない.


バラシュは,同性愛傾向は単純なライフスタイルチョイスではなく,遺伝的傾向を持つことははっきりしているが,その進化的な説明については,様々なあり得る仮説が提唱されていてなお結論は出せないとまとめている.私の印象は可能性があるとされるいずれの仮説も負の適応価をカバーするメリットの量的説明がなかなか難しいように思われる.生理と並んでヒトのセクシュアリティにかかる大きな謎ということだろう.


<芸術>
なぜヒトは美しい絵や音楽を楽しむのかという問題も,一見それが適応価に効かないように感じられるので進化的な謎となる.
バラシュは芸術を含むヒトの知性の問題はダーウィンとウォレスの間に見解の相違*7をもたらしたことを紹介してこの問題の深さを解説している.

バラシュはここで,絵画,音楽,舞踏,小説などについて細かな違いはあるがいったんまとめて扱うとする.そして文化決定論者に対しては,基本的に芸術はユニバーサルな現象で,強い感情的な反応があることから,これには生物学的ルーツがあると考えられるとしている.そして様々な仮説を取り上げて検討する.


1.チーズケーキ説(副産物説)
芸術作品は適応的嗜好への超刺激だというもので,ピンカーが唱えたことで知られる*8.これは芸術家や芸術批評家から総スカンを喰った*9.このような本来の適応ではないという考え方には「何らかの危険を伴う喜びを安全に楽しむことができる」「完全な副産物,スパンドレル」などのバリエーションがある.

バラシュはこれらの考え方について「最初は超刺激だったとしても,これだけ感情を揺り動かすものがいったん蔓延すれば,それは別の適応的な意味を持ち,それに基づいた淘汰が生じたはずだ*10」と指摘している.


2.社会的機能仮説
多くの芸術は,他人と一緒に,あるいはその存在を前提として製作・費消されている.音楽は社会的絆(グループ内の結束)を強めることが知られており,多くの芸術には似たような効果がある.トマセロは音楽の最大の進化的推進力は「意図の共有」からきただろうと主張している.
グループ内の結束を強調する効果仮説は,グループ淘汰仮説であり,ただ乗りをどう防ぐかが問題になる.バラシュは,「グループ淘汰は成立しにくいが,ヒトの場合には特別な成立があり得るかもしれない」と一旦留保する.(なおこのグループ淘汰仮説は後に同様の主張の宗教のグループ淘汰仮説とあわせて検討される.)*11

ここからは個体淘汰的仮説になる.


3.物語の教育効果仮説
特に文芸の芸術に関して,物語は何かを教える良い方法であるというメリットがあるという仮説.
しかし架空の物語は逆に危険になりうるし,そもそも人々がノンフィクションよりフィクションを好むことを説明できない.関連仮説としてはトゥービィとコスミデスの「分離認知仮説」(想像世界でシミュレーションする能力が進化したとする仮説,そのようなことを楽しむことにより認知スキルが上がると主張する),ボイドの「遊びの効用仮説」(物語を楽しむことで,思考が多様化するというメリットがあると主張する)がある.


4.物語にかかる「ゴシップと心の理論」説
社会の中で有益な同盟,友人を作るためにゴシップを交換するようになったというダンバーの仮説.そしてゴシップは他人が何を考えて何をしていたかという内容が中心で,これには心の理論が関連する.


5.性淘汰仮説.
ミラーは芸術は性淘汰産物だと主張した.これは言語の複雑性をはじめとして様々な芸術の性質をうまく説明できる.バラシュはかなり丁寧にミラーの主張を(最近の顕示的消費にかかるものも含めて)紹介している.

バラシュはこれらの様々な淘汰仮説は排他的ではなく,それぞれ効いている可能性を指摘している.


<宗教>
次はアメリカで政治的賭け金の高い「宗教の進化的説明」になる.バラシュはまず,それが完全に文化的な産物なのかどうかについて,宗教も通文化的ユニバーサルであることから何らかの生物学的基礎があると指摘する*12
宗教にはリソース,時間などのコストがかかるし,(少なくとも信者にとって)誤った信念を持つことにもコストがかかりそうなので,進化的には謎になる.ではどのようにしてこれを説明できるのか.「ヒトに慰めを与えるから」「人生の意味を与えてくれるから*13」というのは進化的な説明にならない.

バラシュはここでいったん宗教の特徴を整理している.それは信者の適応度を高めるような信条(避妊の禁止など)を持つこともあるが,逆に見えるものもある.そして宗教があることは通文化的ユニバーサルだが,すべての個人が宗教を信じているわけではない.仮説が説得力を持つにはこれらをうまく説明できなければならない.


1.ミーム仮説.
宗教は寄生的なミームであり,ヒトはそれに操作されているという仮説.これは無神論者に人気がある.
バラシュは「しかし本当にこれほど多くのヒトが操作され続けているのだろうか.またミームだからヒトに非適応的だとは限らない.双利共生的な場合もあり得る.」とコメントしている.


2.適応のオーバーシュート仮説
害意あるかもしれない外部エージェントの探知についてはフォルスポジティブ寄りに認知がチューニングされていて,それが超自然的「神」を信じやすくしている.さらに顔認識,心の理論,因果を求める心,疑問を持ち解答を求める心,プラセボ効果,権威への服従傾向,若い頃に大人の教えることに疑問を持たずに従う傾向がこれを補強する.これは一種の適応的形質の副産物仮説で,アニミズム的崇拝,死者の魂の信念などをうまく説明できる.
また副産物の元になる適応形質に「いろんなことを考えすぎないようにする傾向」「世界には様々な分類群の生物があると考えるフォルク生物学」「何かに従属したいという傾向」「論理より熱情で動く傾向(これ自体の適応性の議論には難しい部分がある)」などを加える説もある.


ここからは適応仮説になる.


3.労力節約説
どのみち解決できない問題をごちゃごちゃ考えてないで,とにかく宗教に従った方が(オーバーシュートではなく)実際に効率的という仮説.


4.合理的選択説.
恋愛と同じように,宗教を信じるのは結果的に,様々な意味で合理的な選択なのだという説.これは人的ネットワークなどの社会資本から見てその方が適応価が高かったという考え方になる.ロバート・ライトの考え方はこれに近い.


5.グループの結束と戦争時の有利性説
宗教的に結束している集団の方が戦争に勝つためにグループ淘汰を通じて淘汰されたという説.宗教的な戦士はより勇敢で,崩れにくく,そして相手を殺すことの倫理性に疑いを持たないということが考えられる.これはグループ淘汰なので,どのようにただ乗りを防げるのかが問題になる.


6.最後の努力とパニックになりにくい説
宗教的信念がある人は,最後まで努力し,危機に当たってもパニックになりにくいのではないかという説.これは個体淘汰的に考えるのならば,なぜ宗教抜きでそう進化しないかが問題になる.するとこれもグループ淘汰の一つととらえることができる.そして同じくただ乗りの問題が浮上する.

ここでバラシュは「グループ淘汰」を整理する.グループ淘汰は不可能ではないが,ただ乗りの問題があり成立要件が非常に狭い*14.そして動物ではその例は知られていない.しかしヒトでは文化や社会慣習という形でそれが可能かもしれない.そして一部の宗教慣習は利己性に対する罰と見ることができる.というわけでD. S. ウィルソンはヒトでグループ淘汰が働いて宗教が進化したと主張する.「宗教は正しいわけではないが適応的だ」と.

このグループ淘汰を巡る論争の賭け金の高さは宗教と道徳の関係のところにある.宗教擁護論者は宗教と道徳を同一視したがる.同一視はおかしいとしても,一部の論者は,「宗教は『常に神が見ている』という信念を植え付けてメンバーをより道徳的にさせる効果はあり,それが内心の良心の起源だ」と主張している.また「より厳しい戒律に従っているメンバー同士の間ではより信頼が高まる効果がある」という議論もある.それはコストのある正直な信号であり互恵的利益を高める効果があるという主張だと解釈できる.これらの議論は宗教は人々をより道徳的,利他的にさせるという主張の根拠として使われる.
バラシュはしかし片方で宗教が外部メンバーに対して残虐になりやすくする効果,偽善を推進する効果もあるだろう*15と指摘する.

バラシュは宗教がグループ淘汰産物かどうかは論争中であり,解決していないと断った上で,淘汰レベルはさておき,少なくとも過去の進化環境で何らかの淘汰が働いて宗教が生まれたのは間違いないだろうとまとめ,そしてそれは現代でも適応的だとは限らないと付け加えてこの議論を締めくくっている.


<知性>
ヒトは進化環境での必要性を遙かに越える洗練された知性を持っているように感じられる.これがバラシュの取り上げる最後の謎になる.

最初に主観的意識とクオリアが哲学者を悩ませていることにちょっと触れた後で,脳の増大に問題を絞る.脳のコストは非常に大きい.何がこのコストを超えるメリットだったのだろうか.バラシュは,最初にグールドの「ランダムで偶然の脳増大にかかる副産物」としての知性の説明を「ばかげた」説として一蹴する.そのうえで,知性は様々なことに影響を与えるので,仮説がいくらでも立てられ,そして検証が難しいことが問題になると指摘している.そして様々な適応仮説を並べていく.


1.道具使用説
道具を作ったり使ったりすることによるメリットだという説.
しかし化石の証拠からは道具製作が脳の増大に先立っている.


2.メリットは上げられているが,検証が難しく,コストを上回れたのか怪しい一連の仮説群
(1) 言語やシンボルの使用
(2) グループ間競争
(3) 更新世の環境変化への対応に狩猟技術の向上を通じて有利だった


3.性淘汰化説 
これは芸術の性淘汰仮説をより一般化したものだ.これは脳のコストが大きいことをうまく説明できるし,脳の大きな動物群(クジラ,ゾウ,類人猿)がそれ以外の動物群と比較して特に生態的に成功しているようには見えないこととも符合する.


4.マキアベリ仮説
社会生活の中で対人関係において,有利な同盟を築く,他人を操作する,他人からの操作を受けにくくするなどの点において有利になると考える説.*16

マキアベリ仮説の最大の問題は,それがそれほど有益なら,なぜほかの動物群で進化しなかったのかが説明できないというところだ.ここでランガムの料理仮説が登場する.


5.料理仮説.
火の獲得と料理を通じて,獲得エネルギーと消化器系のコストのトレードオフを打破でき,(それまで様々なメリットに比べてコスト高で優先度が低くリソース予算が付かなかった)脳の増大にリソースを振り向けることが可能になった(これには「寿命が延び,子供期を伸ばせる」という生活史戦略の変更も含まれる)と考える説.

バラシュはこれらをなお未解決と扱っているが,料理仮説を様々な仮説の上に成り立つ複合仮説として好意的に紹介している.

ここでバラシュは「意識の進化」についても取り上げている.これについては副産物説にも心引かれながら,短期的に不利でも長期的に有利な「節制」行動をとれる装置仮説,マキアベリ知性に関連した「他人の行動を読むためのシミュレーション装置」仮説などを紹介している.

最後にバラシュは,未解決問題はなお残っていること(例としては笑い,泣き,あくび,感情,モラル,自殺行動,うつ,統合失調症,人類の未来)を指摘した上で,本書のメッセージは「現在未解決でもそれは理解不能ではないことだ」とまとめて本書を終えている.


というわけで本書は一般向け総説書として良く書けていると思う.ヒトに関する興味深くかつ未解決の進化的な問題を多数取り上げて,それぞれについてまともな仮説をできるだけ網羅的に紹介し,現時点での議論の状況を行動生態学者としてのバラシュがバランス良く評価している.書きぶりは(グールドを攻撃するところを除いては)抑制がとれていて,かつ丁寧でわかりやすい.よくある一般向けの書物では焦点が絞られてかつ著者の主張が強く打ち出されていることが多く,読者はその客観的な評価がよくわからないことが多い.そういう中で本書は全般的な状況を把握するのに便利であり,大変価値のある書物だと思う.


関連書籍

バラシュは最近大変多作だ.ここでは本書に直接関連するこの本を挙げておこう.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091001


同邦訳書




 

*1:「今日は頭痛がするわ」といってセックスを避けただろうということでこう名付けている

*2:より受精しやすいとか,フローバックが減るなどの説はあったが,検証されていないし,受精についての少数の観察例は逆を示唆している.

*3:センセーショナルなハマーによるゲイジーンの発見報道,行動遺伝学的なソリッドな知見(なお同性愛傾向の遺伝的基盤は男性と女性で異なっており,女性の方がより遺伝的影響が強いそうだ)などが解説されている

*4:なぜ閉経のところで解説せずにここで行うのかはちょっとよくわからない

*5:バラシュは「もしこの仮説が本当なら,軍隊におけるゲイの問題には新たな光が投げかけられるだろう」と示唆していておもしろい.

*6:これはなぜ男性はレズビアンのポルノで興奮するのかという問題にも絡む

*7:バラシュはウォレスが逃げ込んだ「神の介入」という解決策をデネットのスカイフックだと切って捨てている

*8:なおバラシュは,ピンカーは哲学や宗教についても,その一部の説明として「何かを疑問に思うこと」というツールボックスに対する超刺激であると主張しているとコメントしている.

*9:なおシェフからの反発はなかったとバラシュはおもしろそうに付け加えている

*10:例として自動車のエンジンの熱は最初は副残物だったが,ヒーターとして利用されるようになることを挙げている

*11:なおここではデニス・ダットンの奇妙な「音楽は孤独な営み」説を批判している

*12:ここでバラシュは,E. O. ウィルソンの「ヒトは生物学ではなく神を信じるように進化した」というフレーズを紹介し,ヒトは生物学も,物理学も理解できるように進化しているからウィルソンは間違っているとコメントしていてちょっとおもしろい.またここではハマーが主張したとされる「God Gene」なるものがないことについても解説がある.これらはこの問題のアメリカでの賭け金の高さをよく示しているように思われる.

*13:バラシュはそのような仮説が意味を持つには,なぜヒトが人生に意味を求めるのかが説明できなければならないと指摘し,それには例えば「神は自己評価が低かったので,それを高めるために人々にそのようなニーズを植え付け,自分が崇拝されるようにした」という形が必要だと皮肉っている.ここもちょっとおもしろい.

*14:マルチレベル淘汰と包括適応度理論の等価性にまでは踏み込んでいない.一般向けを意識してのことだろう

*15:バラシュは指摘していないが,もし「常に神が見ている」効果があるなら,内心では信仰を持たずにその振りだけをするただ乗り者が有利になるだろう

*16:バラシュは,関連事項として,ダンバーのグループの大きさが重要な淘汰環境であるという考え方,進化心理学のモジュールの考え方をここで説明している.