「渇きの考古学」

渇きの考古学―水をめぐる人類のものがたり

渇きの考古学―水をめぐる人類のものがたり


本書は,先史持代の遺物から当時の人類の認知能力を考察,ヒトの認知の特有性としてその流動性を主張し,認知考古学を立ち上げたスティーヴン・マイズン*1による本である.当然ヒトの認知考古学に関する本かと思って著者名だけみて即買いした本だが,読んでみると認知に関する部分はほとんどなく,ヒトが農業革命以降どのような水管理を行い,遺跡を残してきたのかについて,一考古学者として世界中を巡って壮大に語るという本になっている.原題は「Thirst: Water & Power in the Ancient World」.


序章でフーバーダムの壮麗さとその裏にあるヒトと水との関わりに触れ,世界各地の先史時代,歴史時代の水管理をみていく旨が宣言される.
そして最初の物語は中東レバント地方から始まる.ここではホモ・エルガステル時代の遺跡から解説されるが,実際に水管理の跡が見つかるのはサピエンス以降の遺跡からになる.サピエンス以降でも狩猟採集時代の遺跡からはやはり水管理遺跡は出土しない.マイズンはPPNA期(狩猟採集から農耕への移行期である新石器時代A期)の遺跡を実際に発掘リサーチしているが,そこではやはり水管理にかかる明確な遺物は見つけられなかった.PPNB期になると初めてごくわずかに水管理の跡が出てくる.マイズンはその例外的な2遺跡(ジャフルとキプロス.ダムと井戸が見つかっている)の詳細を語ってくれている.次の土器新石器時代には大規模な井戸やテラス(段々畑や棚田の大規模なものを本書ではこう呼んでいる)が現れ,青銅器時代には運河,貯水池を含む大規模な灌漑システムが現れる.マイズンはジャワ遺跡,そして紀元前700年頃のエルサレムのトンネル遺跡を丁寧に解説している.


ここからは歴史時代に突入し,舞台はメソポタミア南部に移る.マイズンはウルク,シュメール,ウル,バビロニアの各王朝とシュメール文明の興亡を語り,その遺跡を訪ねる.その灌漑システムは見事なものだったが,最終的に土壌の塩性化を引き起こし,文明の中心はメソポタミア北部に移る.この塩性化については歴史家,考古学者の間で議論があるようだ.マイズンは論争のあらまし,双方の主張を紹介し,結論として「確かにシュメール人はいくつかの塩性化を遅らせる技術を持っていたし,またその文明の没落にはその他の要因もあっただろうが,灌漑システムが塩性化を引き起こして没落の大きな要因となったことは否めない」としている.


次はギリシアローマ時代になる.ここでのマイズンの筆致は前章までのリサーチャー的な視点から,紀行者的なのどかなものに転換する.
最初はギリシア.王女の水洗トイレで有名なクノッソス宮殿の集水システム,ホメロス文学とミュケナイ文明期のティリンスの水利事業,古典期アテナイの水道,サモス島にみられる信じられないほど精密な古代トンネル掘削技術,アルキメデスの逸話などを楽しそうに語る.次はペトラ.ナパテア人は砂漠の中に精密な水道を作り上げる.そしてローマでは贅沢とも思える水道システムと大浴場,最後はコンスタンチノープルの長大な水道システムと貯水池群が印象的だ.このギリシアローマ編はそこへの旅や歴史物語とともに遺跡の興味深いところが現地リポートよろしく楽しそうに語られている.マイズンの想定読者にはある程度基礎知識がある文明についての解説という事情があるのだろう.肩の力が抜けていて読んでいても大変楽しいところだ.


ここからは西洋文明以外の水管理物語になる.ここではマイズン自身が学習者となって,先達の学者の業績を追い,遺跡を自分の目で見て読者に伝えるという風に語られていく.
最初は中国.ジョセフ・ニーダムの業績を追い,史記に収録された伝説を伝え,春秋時代の都江堰の見事な設計思想と執念の土木工事,そしてそれが現在でも見事に機能していることを語る.そのほか長安の水道,隋唐時代の大運河事業,現代の三峡ダムが紹介されている.
次はカンボジアのアンコール遺跡群.アンコール・ワットやアンコール・トムなどの遺跡はバライと呼ばれる貯水池群と密接に結びついて設計されている.これらをアンリ・ムオをはじめとする西洋の学者が謎解いていく物語が語られ,それが水利事業だったのか宗教儀式だったのかという論争を紹介しながら,最終的に水利事業として見事な設計がなされていることがわかる経緯を説明している.


そして旅は滅んでしまった文明の水管理に進む.ここでは没落要因と水管理の関係にも注意が払われている.アリゾナのホホカム文明はソノラ砂漠の真ん中に運河と灌漑システムを作り上げた.マイズンはそれらは短期的な成功の跡で,補修管理のための人的システムが崩壊して14世紀の洪水と干ばつを乗り切ることに失敗したという仮説を解説する.マヤ文明は地下水層が非常に低く乾季にきびしい水不足になるという「緑の砂漠」地帯にあり,雨水の貯水システムが発達する.そして歴史を通じて多く都市が様々な時期に興亡を繰り返す.マイズンはこの文明は,水を供給する王の権威が雨乞い失敗時に崩壊し,時に倒されて没落するという事を繰り返してきたのだろうと推理している.最後はインカ帝国マチュピチュはインカ王の避暑地で容易に近づけない場所にあったためにたまたまコンキスタドールによる破壊を逃れた都市だ.そしてそれを作ったインカ文明は泉の水を水道として引き,山の斜面にテラスを作って農業生産効率を上げた文明なのだ.マチュピチュには今でも機能する水道が残っている.このシステムもなかなか印象的だ.崩壊はヨーロッパ人が持ちこんだ病原体によって大きく人口を減らしていたときにコンキスタドールに攻め滅ぼされたと考えるべきで,ここだけは水管理の失敗というわけではないとしている.


マイズンは最後に水管理と文明についてまとめのエッセイをおいて,歴史的な視点で水管理を考えたときに悲観的に思えること,希望となることなどを整理している.実感がこもっているが,特に独創的なことが書かれているわけではない印象だ.


というわけで本書はヒトの認知にも進化生物学にもあまり関係のない歴史と考古学に関する本という事になる.水管理という統一テーマに沿い,著者にエクスパタイズがある先史時代を含む中東地域編,楽しいギリシアローマ編,興味深い他文明編と少しずつテイストを変えていて読んでいて飽きさせない.また多くの遺跡の詳細な説明も本書の価値の大きな部分だろう.500ページ近くある大部な本でマイズンの考古学者としての基礎の深さをしっかり感じさせる重厚な内容だ.歴史に興味のある人には大変面白い読み物だと思う.


関連書籍


原書

Thirst: Water and Power in the Ancient World

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マイズンの本

流動性知性の主張が書かれた認知考古学を世に知らしめた名著

心の先史時代

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プロト言語と音楽について書かれた本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060716

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

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*1:Mithenの読みについては本人はマイズンと発音するようだ.本書では過去の訳本との統一ということもあるのだろうか,ミズンとしている.(確かに本ごとにバラバラだと後で検索するときにやっかいなのでこの配慮もわかる)本ブログではマイズンと表記する.